こんにちは!
今回は、ものすごい自信家でナルシストだった画家クルーベについてです。
早速見ていきましょう!
ギュスターヴ・クールベ(1819-1877年)
ギュスターヴ・クールベ《黒い犬を連れた自画像》1842-1844年
ギュスターヴ・クールベは、フランスの写実主義の画家です。
裕福な家庭
スイス国境近くのフランス、オルナンで、農場とブドウ園を経営する裕福な家庭に生まれました。
18歳のとき、近くの町ブザンソンで絵の勉強をしました。
20歳のとき、両親の意向で法律を勉強するため、パリへ出てソルボンヌ大学法学部に入学しました。
しかし、クールベ自身は画家を目指していたため、アカデミー・シュイスに通い、ルーヴル美術館で模写をする日々…。
リアリスム
ギュスターヴ・クールベ《絶望(自画像)》1843年頃
22歳から28歳まで毎年サロンに出品しましたが、24点中3点しか入選しませんでした。
1848年、29歳のとき、2月革命が起こり、王様の時代が終わり、選挙で国の代表を決めるようになりました。
この頃、「ブラスリーアンドレール」という店で、「リアリスム」という言葉が生まれました。
作家や社会主義者に混ざり、クールベも毎晩激論を交わしていました。
ボードレールやドーミエたちと親しくなります。
同じ農民の絵なのに…?
ギュスターヴ・クールベ《オルナンの食休み》1849年
30歳のとき、この絵をサロンへ出品すると、アングルとドラクロワから評価され、それがもとで国家買い上げになりました。
ギュスターヴ・クールベ《オルナンの埋葬》1849-1850年
縦3メートル以上、横6メートル以上ある、超巨大な作品です。
そしてこの超巨大な作品をサロンに出品すると、「醜い」「農民のくせに立派すぎる」「個人的すぎる」など酷評の嵐…。
何が問題だったのか
この2枚の絵、どちらも農民を描いた絵なのに、どうして片方は酷評されたのでしょうか?
理由として一番大きいのは、「サイズ感」です。
当時、2枚目のような超巨大なキャンバスは、宗教画や歴史画などで使用することが普通でした。
なのにクールベが、故郷の農民の葬式を、あまりにも壮大なスケールで描いたので問題になりました。
私もこの絵を実際に見たことがあるのですが、本当笑っちゃうくらい大きかったです。
パトロン
ギュスターヴ・クールベ《浴女たち》1853年
サロンでこの絵を見た皇帝ナポレオン3世は、怒ってムチで叩いたといわれています。(実際には叩いていません)
というのも、当時の人から見れば、中央の女性の表現が俗悪で不潔にしか見えなかったからです。
批判された作品でしたが、美術愛好家のアルフレッド・ブリュイヤスが購入し、以降彼はクールベのパトロンとなりました。
世界初の個展
1855年、36歳のとき、パリ万博が開催されました。
このときの万博のテーマは「芸術」でした。
実行委員会から、クールベにも「作品を出品してくれませんか?」と声がかかります。
ただし、事前審査ありでした。
ギュスターヴ・クールベ《画家のアトリエ 私のアトリエの内部、わが7年間の芸術的な生涯を要約する現実的寓意》1854-1855年
クールベは、14点中3点、しかも自信作の大作が審査に漏れたことに納得ができず(作品の質ではなく、単純にサイズが大きすぎて会場に入らなかったためともいわれています)、万博開場のすぐ近くで個展を開き、40点展示しました。
個展の準備費用はパトロンのアルフレッド・ブリュイアスにお願いしました。
最初は万博と同じ入場料1フランをとっていましたが、客が入らず、最終的には半額にまで下げたんだとか…。
当時、画家が自分だけの作品を並べた個展を開催する習慣がなかったため、クールベの個展が世界初だといわれています。
…言われているのですが、実はそれ以前にも1769年にはジャン=バティスト・グルーズが、そして1822年にはオーラス・ヴェルネが自分のアトリエで作品を展示しています。
クールベの場合は、公的な場所での世界初の個展、といったところでしょうか。
個展のカタログに記されたクールベの文章は、後に「リアリスム宣言」と呼ばれるようになります。
何が書いてあったのかというと「自分は生きた芸術をつくりたいのだ」というような内容です。
ギュスターヴ・クールベ《出会い、こんにちはクールベさん》1854年
右のクールベと、緑の服のパトロンのブリュイアスが、田舎道でばったり出会って挨拶をする場面が描かれています。もう一人の男性は、カラスという名のブリュイアスの使用人です。
個人的な出会いを、あたかも歴史的な出会いのように描いていると非難されてしまいます。
売れ始める
38歳のとき、万博での事件の後、ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリスとヨーロッパ各国を旅し、各国で歓迎され、勲章やメダルをたくさんもらい、作品もよく売れるようになりました。
42歳のとき、美術学校に不満を持つ若い画家たちの声に応え、新しいスタイルの画塾を開きます。
しかしこれは、斬新すぎてうまくいきませんでした。
ギュスターヴ・クールベ《女と鸚鵡》1866年
48歳のとき、万博の際、個展を開きました。
大人気画家へ
ギュスターヴ・クールベ《エトルタの崖、嵐のあと》1870年
51歳のとき、上の作品をサロンに出品し、大絶賛されます。
この頃には人気画家になっていました。
そんなクールベにレジオン・ドヌール勲章の話がきましたが、拒否します。
捕まる
普仏戦争に敗れた後現れた、労働者のつくった革命政府(パリ・コミューン)の議員に選ばれました。
コミューンは、王政の象徴である記念円柱を破壊しました。
これがヴァンドーム事件です。
パリ・コミューンはわずか72日で崩壊し、ヴァンドーム事件の責任を問われ、禁固6か月の刑に…。
失意のうちに…
ギュスターヴ・クールベ《鱒》1872年
刑務所で服役中に病気になり、刑期は短縮され、53歳のとき保釈され、故郷オルナンに帰りました。
54歳のとき、スイスに亡命しました。
55歳のとき、財産が没収され、莫大な賠償金を課されます。
58歳のとき、失意のなか、亡命先で、過度の飲酒などで健康を損ない、肝臓病に苦しみながら亡くなりました。
遺骨が故郷オルナンの墓地に眠るのは1919年、42年後のことでした。
まとめ
・クールベは、超自信家なリアリスムの画家