こんにちは!
今回は、ゴッホがどうして「ひまわりの画家」と呼ばれるようになったのか解説します。
ゴッホは「ひまわり」の絵を全部で17枚描いていますが(油彩、水彩、素描を含む)、今回はその中から15枚紹介します!
早速見ていきましょう!
目次
ひまわりの画家
フィンセント・ファン・ゴッホ《バラとひまわり》1886年8月-9月
1886年、33歳のゴッホが、パリに引っ越してきました。
それまでのゴッホは茶色を基調とした暗い色で描いていましたが、パリで印象派のカラフルな絵画を見てからは、作品が明るくなりました。
花はそのカラフルな絵を描く練習にはもってこいのモチーフだったことと、モデルを雇うお金がなかったため、ゴッホはしばらくの間、「花以外は何も」描いていませんでした。
さらに、当時、花の静物画が売れていたことから、自分の絵も売れることを期待していましたが、結局売れませんでした…。
《ひまわりのある庭》1887年6月
パリを散歩するとき、緑がたくさんある場所に行くのを好み、そこで出会ったモチーフの一つがひまわりでした。
上の絵では、人を描くことによって、ひまわりがどれだけ大きく高く成長できるのかを強調しています。
《ひまわりのあるモンマルトルの小道》1887年6月
現在よくあるような、あたり一面黄色い花でいっぱいのひまわり畑のようなものは、ゴッホが生きていた時代にはありませんでした。
この絵のように、他の植物と一緒にひまわりが植えられているのが普通でした。

《ひまわり小屋》1887年8-9月
ひまわりの絵は珍しかった

《4つのひまわり》1887年8-9月
他の画家たちは、一番上の《バラとひまわり》のように、様々な花を描く時に、黄色のアクセントとしてひまわりを描くことはありましたが、ひまわりだけを描くことは稀でした。
ゴッホは、当時最新の色彩理論のひとつでもあった「補色」(青と黄、赤と緑といったお互いの色の効果を強める色の組み合わせ)を学び、絵に生かしていました。
上の絵でも青と黄の補色の効果が用いられています。

《種になったひまわり》1887年8-9月
というのも、当時、ひまわりは「粗末」でエレガントではない植物と見なされていたため、ひまわりに興味を持つ画家はほとんどいませんでした。
ですが、ゴッホは「綺麗なもの」より「素朴なもの」の方が好きだったので、まさにゴッホ好みの花だったのでしょう。
ゴッホの面白いところは、さらに枯れて死んだひまわりを選んで描いたことです。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》1887年8-9月
ゴーギャンはパリで、ゴッホの描いた枯れたひまわりの絵を見て、その絵を気に入り、自分の作品との交換しないかとゴッホに提案しました。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》1887年8-9月
上2枚のひまわりの絵と下のゴーギャンの絵を交換しました。

ポール・ゴーギャン《マルティニークの川のほとりに》1887年
ゴーギャンが気に入ってくれたから

個人蔵、焼失(山本顧彌太旧蔵)、ノイエ・ピナコテーク、ロンドン・ナショナル・ギャラリー
ムンクの叫びも複数枚あるのと同じように、理由は様々ですが(画家がそのモチーフが好き、高く売れる、注文者から同じ絵が欲しいと言われる…などなど)、同じ絵を複製するというのはよくあります。
ではなぜゴッホはひまわりの絵を7点も描いたのかというと、尊敬していた画家ゴーギャンが、ゴッホのひまわりの絵を見て「これこそ花だ」と言い、彼が気に入ってくれていたからです。
ゴーギャンに喜んでもらいたくてひまわりの絵いっぱい描いたとか可愛い…(重い彼女みたい…)。
ゴーギャンを迎えるために描いた
ゴッホは、アルルに夢と理想を詰め込んだ「黄色い家」という、画家同士が一緒に生活をし、絵を描き、熱く語り合う場所を作ろうとしていました。
そこにゴーギャンが来てくれることになり、ゴッホは「黄色い家」の室内を上から下まで絵でいっぱいにするため、飾るための絵をものすごいスピードで描き始めます。(ゴッホの有名な絵は、ひまわりに限らずこの時に描かれたものが多いです)
その中の一つとしてひまわりの絵がありました。
ゴッホは「黄色い家」を友情や感謝の気持ちを込めた6枚のひまわりの絵で飾る予定でした。
後に12枚描きたいとさえ言い出しましたが、結局花の時期が過ぎてしまったため(8月に描き始めて10月にゴーギャン が来た)、実際に描きあげたのは上の4枚だけでした。
1、1888年8月 3本 個人蔵

ゴッホがアルルで最初に描いたひまわりです。
ブルーとグリーンの中間色とひまわりのオレンジの対比が美しいです。
2、1888年8月 5本 焼失(山本顧彌太旧蔵)

実は日本にありましたが、なんと阪神大空襲で燃えてしまいました…
戦争で貴重な美術品が消えてしまうのは本当に悲しい…
実物はありませんが、徳島の大塚国際美術館にレプリカが展示されています。
群青色の背景や色の塗り方、線の描き方が、若干浮世絵っぽい感じ。
ゴッホは浮世絵の大ファンでしたからね。
3、1888年8月 12本 ノイエ・ピナコテーク

ゴッホはこのひまわりの絵がお気に入りだったそう。
その証拠に、この絵と次のロンドン版の2枚を、ゴーギャンが使用する予定の客室に飾っていました。
フェルメールの影響を受け、コントラストをつけるために、黄色の補色は紫ですが、青が使われています。
黄色の青との対比で、ひわまりが輝いてみえます。
ひまわりはすぐしぼんでしまうため、全体を一気に書いてしまう必要があると、日の出とともに制作に取りかかりました。
花瓶にはゴッホのサインが入っています。
ゴッホは自分の気に入った作品にしかサインしなかったそうなので、それを踏まえて作品を見る楽しみもあります。
12本のひまわりが描かれていることから、キリストの弟子、12使徒を連想させます。(ゴッホは昔、熱烈にキリスト教にハマっていた時期あり)
ヴァニタス
ゴッホは、ひまわりのライフサイクルの様々な段階を1枚の絵の中で表現しています。
新芽から成長して最終的に腐敗するまでの姿と人間の一生を重ね合わせた「ヴァニタス」とみることもできます。
4、1888年8月 15本 ロンドン・ナショナル・ギャラリー

それまでに描かれた3枚は、青系の背景とひまわりの黄色を対比させ、花の存在を際立たせていました。
上の絵は、明るい背景に明るい色で描くということに挑戦した作品です。

花の中心部分や花びらは、チューブから絞り出した絵の具をそのままのせたかのように厚く盛り上がっています。
この勢いのある筆使いが、画面に生命力を生み出しています。
一方、背景はやや薄いトーンでムラなく丁寧に塗られています。
同じ黄色系の絵の具を使いながらも、トーンや塗り方でメリハリをつけることで、ひまわりを目立たせています。
花瓶と背景&テーブルの対比
花瓶の2色は、背景の薄い黄色とテーブルのオレンジ色を逆にした配色となっています。遊び心。
花瓶とテーブルは、日本の浮世絵の影響により、単純化され、平面的で、輪郭線が縁取られています。
ゴーギャンが欲しがった作品
「黄色い家」に飾られていた4枚のなかで、ゴーギャンが一番気に入り、「本質を表した完璧な1枚」と絶賛していた作品です。
2人の共同生活は、ゴッホの耳切り事件で終わりを迎え、その後二度と会うことはありませんでしたが、絶交したわけではありません。
手紙のやり取りは続いており、後にゴーギャンは「あの《ひまわり》(この絵)を送って欲しい」とゴッホに頼んでいます。

ロンドン・ナショナル・ギャラリー、SOMPO美術館、ゴッホ美術館
ゴッホ自身もロンドン版を気に入っており、失いたくなかったため、複製することにしました。
結局その絵をゴーギャンに送ることはありませんでした。
複製とはいえ、壺に反射する光など、どちらかというと写実的に描かれているロンドン版から、SOMPO版を経て、比較的装飾的なゴッホ美術館版に至るまで、画面は次第に愁傷的な傾向を帯びていっています。
背景、ひまわり、壺に用いられている色彩はどれも「黄色」ですが、各作品によって、その明るさや色調が微妙に違っています。
さらに、背景に対するひまわり、壺、テーブルのコントラストも各作品で異なっているのがわかります。
色彩以外でも、筆遣いを見比べてみると、SOMPO版は全体が厚く塗られているのに対し、ロンドン版とゴッホ美術館版は、テーブルや壺など一部が平面的に塗られています。
また、花の細かい部分では、SOMPO版やゴッホ美術館版の作品には、芯に赤や水色が用いられているなど、様々な違いを3つの作品のなかに見いだすことができます。

フィンセント・ファン・ゴッホ《マルメロ、レモン、ナシ、ブドウのある静物》1887年
ゴッホはパリ滞在中からアルル滞在中にかけて、「明るい色に明るい色を重ね」、「点描やその他の手段に頼らず、筆致の変化だけで筆の動きを見せ」ようとしていました。
実際にパリにいた頃から、ゴッホは上の絵のように、黄色い背景に黄色い果物を描いた作品をいくつか描いており、《ひまわり》を描く前から色彩と筆遣いの研究に取り組んでいたことがわかります。
色調や明度が異なる様々な「黄色」を用いながら、筆遣いの変化で対象を表現しようとした一連の《ひまわり》は、ゴッホにとって、それまで取り組んでいた研究テーマに基づく、ひとつの試みだったと考えられています。
ゴーギャンが描いたひまわり

ポール・ゴーギャン《ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ》1888年
アルルでのゴッホとの共同生活を始めて2か月が経った頃に、《ひまわり》を制作していたときのゴッホの姿を想像して描いた作品です。(共同生活中にゴッホはひまわりの絵を描いていません)

ポール・ゴーギャン《ひじ掛け椅子の上のひまわり》1901年
また、ゴーギャンは、晩年、友人に頼んでひまわりの種を送ってもらい、育て、絵に描いています。
5、1888年12月-1889年1月 15本 SOMPO美術館

新宿の損保ジャパン日本興亜美術館(SONPO美術館)所蔵品です!
目の粗いジュート布に描かれていることから、ゴーギャンと共同制作中の作品と推測されています。
過去に度々贋作疑惑が持ち上がり、そのたびに「真筆」との結果に落ち着く作品です。
ちなみに贋作の場合、ゴッホのコレクターで画家のエミール・シェフネッケルかゴーギャン作では?といわれています。
6、1889年1月 15本 ファン・ゴッホ美術館

3点目の黄色い背景のひまわりである本作を描き終える約1週間前、ゴッホは弟テオへの手紙のなかで「ある意味、僕にはひまわりがある」と語っています。
ゴッホにとって黄色い背景のひまわりは、長年の研究成果のひとつであり、それゆえに、自他共に認める代表作となったのかもしれません。
それと同時に、このひまわりの連作から、ゴッホが感情のおもむくままに絵筆をとった画家ではなく、何度も試行錯誤を繰り返しながら、自らの芸術を追求した画家だったということもわかります。
本当の意味でゴッホのひまわりは枯れかけている?
ゴッホ美術館のX線での調査によって、ひまわりの退色が起きていることが判明しました。
花びらや茎に使われたクロムイエローが、光に当たってゆっくりと茶色に変色しつつあることがわかったそう。

上のひまわりの拡大図
ゴッホ美術館が発表した、完成当初の色味の再現です。
比べると雰囲気が全然違いますね。元の絵は毒々しい感じが…。
画面の上を継ぎ足している
![]()
出典:Van Gogh Museum, Amsterdam『Creating space above the bouquet Sunflowers』
この絵をよく見ると、上が継ぎ足されていることがわかります。
追加部分の塗料がキャンバスと同じなため、後世の誰かが勝手に継ぎ足したのではなく、ゴッホ自身が行ったことがわかります。
描いている最中に、上部の花が絵の端に近すぎると感じ、バランスを取るため上を追加しているのでしょう。
![]()
出典:Van Gogh Museum, Amsterdam『Creating space above the bouquet Sunflowers』
裏から見ると継ぎ足したことがよくわかります。
![]()
出典:Van Gogh Museum, Amsterdam『Creating space above the bouquet Sunflowers』
X線写真で見ると、丸の部分、釘やボルトで留めてあることがわかります。
![]()
出典:Van Gogh Museum, Amsterdam『Creating space above the bouquet Sunflowers』
丸の部分はゴッホの指紋だとされており、絵の具が完全に乾く前にここをつかんだのだろうと考えられています。
7、1889年1月 12本 フィラデルフィア美術館

3の作品を模写した作品。
右のひまわりの赤がアクセントになっています。
画面左に影のような暗い部分があるので、右の明るい部分が尚のこと目立ちます。
三連祭壇画

1889年5月23日ゴッホからテオ宛の手紙の一部
ゴッホは、手紙で、《ゆりかごをゆする女》の横に《ひまわり》をかけたいと考えていました。

ゴッホ美術館、《ゆりかごをゆする女(ルーラン夫人の肖像)》1888-1889年、フィラデルフィア美術館
こうすることによって、《ゆりかごをゆする女》の頭部の黄色とオレンジの色調が輝きを増すと書いています。
これら3つの絵で「感謝の気持ち」を象徴しているそう。
ひまわりは太陽の花
ひまわりはフランス語で、Les Tournesols(レ トゥルヌソル)と言います。
または、soleil(ソレイユ)と言う場合もあります。意味は「太陽」です。
ソレイユと聞いてなにか思い出しませんか?
日本でもメジャーな「シルク・ドゥ・ソレイユ」ですが、意味は「太陽のサーカス」です。
英語でもsunflower、オランダ語でもzonnebloemと言い(ゴッホの出身地はオランダです)、意味は太陽の花です。生命の象徴です。
国が違ってもひまわりに対するイメージが同じなのって面白いですよね。
信仰心の象徴
太陽に向かって咲くと考えられていたひまわりは、西洋では信仰心や忠誠心の象徴でもありました。
また、古代エジプトの神ラーに代表されるように、太陽は神の象徴でもありました。
牧師の父を持ち、一時は結構過激なキリスト教信者だったゴッホは、ひまわりに信仰心や博愛の精神を込めて描いたのかもしれません。
ゴッホの棺桶の周りにはひまわりが
ゴッホが亡くなり、葬儀が行われた際、棺桶の周りには黄色い花(ひまわりやダリア)でいっぱいでした。
どんな様子だったのかの詳細はこちら↓
インスピレーションを受けて

イサーク・イスラエルス《ゴッホのひまわりの前に立つ女性》1916-1920年
ゴッホの死から約30年後、オランダの画家イサーク・イスラエルスが、ゴッホの弟テオの妻ヨーからゴッホの《ひまわり》を借りて描いた作品です。(彼はテオの親友でした)
この絵から、ゴッホの《ひまわり》の額が、元々はシンプルな白いフレームだったことがわかります。
余談ですがイサーク・イスラエルスの父親はヨゼフ・イスラエルスというハーグ派の有名な画家で、生前のゴッホが尊敬していた画家でした。
本当は14本だった?

イサーク・イスラエルス《ゴッホのひまわりの前に立つ女性》1918年
絵の中の《ひまわり》は、下の絵だと推定されています。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》1888年
2つの絵を見比べると、イサーク・イスラエルスの作品では左下のひまわりが1本ありません…!
ゴッホは本作を「14本の花束」と言っていましたが、実際に数えると15本です。
単純にゴッホの数え間違えとも、後年描き加えられたともいわれており、様々な説がありますが、はっきりとはしていません。
ただし、14という数は、自分を含めたアルルに集う画家の仲間たちをキリストの12人の弟子(12使徒)になぞらえ、そこに指導者となるゴーギャンと画商の弟のテオを加えた数とされ、アルルで芸術家の共同制作を夢見たゴッホがこだわった数字だともいわれています。