キュビスムの生みの親 ハンサムなブラックを超解説!

こんにちは!

今回は、ジョルジュ・ブラックについてです。

早速見ていきましょう!

ジョルジュ・ブラック(1882-1963年)

ジョルジュ・ブラック 1908年

ジョルジュ・ブラックは、フランスの画家です。

仲間から「白い黒人」と呼ばれるほど体格が良く、いつもスーツを着ていました。

画家への道

パリ近郊のアルジャントゥイユで生まれました。

父親はペンキ屋でした。

17歳のとき、高校を中退し、装飾画家ロネーに弟子入りしました。

18歳のとき、装飾の技術を学ぶためにパリに出て、モンマルトルに住みました。

21歳のとき、装飾ではなく画家を目指してパリ国立美術学校に入学しました。

休みの日は、ルーヴル美術館や画廊を回っていました。

マティス、セザンヌに影響を受ける

ジョルジュ・ブラック《レスタック近くのオリーブの木》1906年

23歳のとき、サロン・ドートンヌでマティスなどのフォーヴ作品を見て、その色彩に圧倒されます。

初期のブラックは上のような絵を描いており、マティスから「フォーヴの星だ」と言われ、翌年の展覧会では出品作6点が完売しました。

ジョルジュ・ブラック《レスタックの高架橋》1907年

25歳のとき、サロン・ドートンヌでセザンヌの回顧展が開かれ、セザンヌのいろんな視点を一つの画面に描く手法に衝撃を受けました。

ピカソとの出会いとキュビスム誕生

詩人アポリネールに連れられ、ピカソのアトリエを訪問し、《アヴィニョンの娘たち》を見て衝撃を受けました。

ジョルジュ・ブラック《家と木》1908年

ピカソに影響を受け、ブラックはフォーヴを捨て、立方体の風景を描くようになりました。

上や下の作品は、セザンヌの風景風でありながら、キュビスム的な絵になっています。

ジョルジュ・ブラック《レスタックの家》1908年

26歳のとき、レスタックで制作しました。

ある日、ピカソと出会い、近作を見せ合うと、ピカソもキュビスムを始めていました。

ジョルジュ・ブラック《マンドラ》1909-1910年

ピカソとの共同制作でキュビスムの研究は加速しました。

ジョルジュ・ブラック《ヴァイオリンとパレット》1909年

27歳のとき、分析的キュビスムが始まりました。

ジョルジュ・ブラック《ポルトガル人》1911-1912年

サロンに初めてキュビスム的作品を2点出品し、大きな噂となりました。

実はブラックやピカソの絵は、これより少し前から公の場にあまり出ていませんでした。

というのも、ドイツ人画商ヘンリー・カーンワイラーが彼らを早くから抱え込み、作品をコントロールしていたからです。

自分の画廊に作品を展示し、サロンへの出品を止めるように諭しながら、安定的な報酬を画家たちに約束していました。

パピエ・コレ(貼り紙)の誕生

ジョルジュ・ブラック《果物皿とグラス》1912年

30歳のとき、木目を印刷した壁紙を見て、パピエ・コレ(貼り紙)の手法を発明し、総合的キュビスムが始まりました。

上の作品は、最初のパピエ・コレの作品です。

マルセル・ラブレ結婚しました。

32歳のとき、第一次世界大戦に従軍し、翌年頭部に重症をおい、失明しかけました。

作風の変化

ジョルジュ・ブラック《果物のバスケットを運ぶ女性》1923年頃

35歳のとき、怪我も良くなり、制作を再開しました。

上の絵のように、作風ががらりと変わりました。

ジョルジュ・ブラック《「ル・ジュール」のある静物》1929年

46歳のとき、「円卓」シリーズを制作しました。

ジョルジュ・ブラック《イーゼルの前に座っている女性》1936年

ジョルジュ・ブラック《スタジオ(窓の前の花瓶)》1939年

57歳のとき、第二次世界大戦が勃発しました。

58歳のとき、ドイツ軍を避け、南フランスへ移りました。

66歳のとき、ヴェネツィア・ビエンナーレで絵画大賞を受賞しました。

67歳のとき、ニューヨーク近代美術館(MOMA)で大回顧展が開かれました。

69歳のとき、レジオン・ドヌール賞3等勲章を受章しました。

ジョルジュ・ブラック《二羽の鳥》1955年

晩年はアトリエにこもって制作し、鳥のイメージが繰り返し表れました。

そして81歳で亡くなりました。

まとめ

ブラックは、ピカソと共にキュビスムを生み出した画家