こんにちは!
今回は、つながった眉毛がチャームポイントのフリーダ・カーロについてです。
早速見ていきましょう!
フリーダ・カーロ(1907-1954年)
フリーダ・カーロ《いばらの首飾りとハチドリの自画像》1940年
フリーダ・カーロは、メキシコの画家です。
47年という短い生涯で約200点の作品を残し、その大半が自画像でした。
メキシコシティ郊外のコヨアカンで生まれました。
フリーダの生家「青い家」は、現在フリーダ・カーロ記念館として一般公開されています。
フリーダと父親
フリーダ・カーロ《私の父、ギリェルモ・カーロの肖像》1952年
父親はドイツからの移民でハンガリー系ユダヤ人で写真家、母親はスペインとインディオのハーフでした。
6歳のとき、ポリオを患い、後遺症として右足の成長が止まって、痩せ細り、引きずって歩くようになり、いじめられ、学校も1学年遅れることになりました。
父親は、足が元に戻るようにと、自転車、ローラースケート、ボート、レスリングなどいろんなスポーツをやらせましたが効果はありませんでした…。
リハビリを兼ねて父親は、フリーダをよくハイキングに連れていき、水彩画やカメラの使い方を教えました。
この経験が、画家となった後年のフリーダに大きな影響を与えました。
上の父親の肖像画の下の文には、
「私は父ギリェルモ・カーロを描くものなり。父はハンガリー・ドイツ系の出にして、芸術家であり、職業写真家である。心ひろく、知的で、その人となり貴く、勇敢にして、60年の長きにわたっててんかんに悩めるも、休みなく働き、ヒトラーにはむかった。敬愛する娘フリーダ・カーロ」
と父親への感謝が書いてあります。
医者を目指していた
14歳のとき、医者になることを目指し、メキシコシティでトップの国立高校に合格し、5年コースに通学することになりました。
国立高校にこの年に初めて女性が入学し、2千人の学生のうち35人しかおらず、フリーダもその中のひとりでした。
ドイツの学生と同じ服で、学内の注目を浴びました。
右足の細さをカバーするため、白い靴下を何枚も重ね、ブーツを履いていました。
その後、ロングスカートで足を隠すため、メキシコ民族衣装を常時着用するようになり、欧米での成功にそのエキゾチックなファッションと容姿が役に立ちました。
父親の友人で広告デザイナーのフェルナンド・フェルナンデスにスケッチを習っており、次第に画家を目指すようになりました。
ある日、学校の壁画を描きに来ていた画家ディエゴ・リベラを初めて見ました。
フリーダ・カーロ《アレハンドロ・ゴメス=アリアスの肖像》1928年
フリーダは、秀才グループ「カチュチャス」に入り、リーダーのアレハンドロと恋仲になりました。
上の絵の右上には「アレックス、愛情を込めてあなたの肖像画を描きました。彼は永遠に私の同志のひとりです。30年後のフリーダ・カーロ」と書いてあります。
事故で体がボロボロに…
18歳のとき、フリーダと恋人のアレハンドロが乗ったバスと路面電車が衝突し、多数の死傷者が出る事故が発生しました。
アレハンドロは軽傷でしたが、フリーダは体にバスの手すりの鉄の棒が突き刺さり、意識不明の重体に…。
さらに、乗客に塗装職人がいたのか、金粉入りの袋を持った人がいて、その袋が敗れたため、血まみれのフリーダの身体に金粉がふりまかれていたと、後に恋人が語っています。蜷川実花さんの映画みたい…。
医療カルテによれば、フリーダは、脊柱3カ所、骨盤3カ所、右脚11カ所、腰椎、鎖骨が折れ、右足首と左肩を脱臼、腹部と膣に穴が開き、運ばれた病院では最初、助かる見込みのないグループに振り分けられていました。
なんとか手術してもらうことができ、奇跡的に命をとりとめました。
そして1ヶ月後には退院しました。
これも1ヶ月で治ったのではなく、おそらくそれ以上の治療を受けさせる経済的余力が両親になかったため、退院せざるおえなかったのだろうと考えられています。
退院後の脊椎検査は行われず、それが原因で後に再発し苦しむことになります…。
この事故さえなければ、医者になるのも夢ではなかったはずなのに、入院費用が家計を圧迫し、退学することに…。
恋人のアレハンドロは、1度お見舞いに来ただけで、2人の仲は自然消滅のように破綻しました。
石膏のコルセットで固定され、自宅のベットでの寝たきり生活が始まりました。
絵が好きなフリーダのために、母親はベッドの天井に大きな鏡を吊るし、寝ながら描ける画材を用意しました。
《ビロードの服を着たフリーダ》1926年
19歳のとき、上の自画像を完成させ、かつての恋人に熱い手紙とともに贈りましたが、彼が戻ってくることはありませんでした。
リベラとの出会い
20歳のとき、通常の生活が送れる程度に回復したフリーダは、メキシコ共産主義闘争を支援する芸術家グループに加わり、画家を目指しました。
当時メキシコで1番有名な画家だったのは、ディエゴ・リベラでした。
彼は、文部大臣の依頼で、読み書きできない民衆のために公共建造物の壁にメキシコの歴史画を描くという仕事をしていました。
フリーダは、制作現場にいる41歳のリベラに会いにいき、自分の作品を見せ、彼に意見を求めました。
リベラは後にこの時の出来事を「カンバスにはものすごい表現力が示されていた」と語っており、フリーダの感性に大きな感銘を受けました。
美女と野獣
フリーダ・カーロ《フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ》1931年
リベラはフリーダに一目惚れし、妻と別れ、短い交際の後、結婚しました。
この時フリーダ22歳、リベラ43歳でした。
21歳という歳の差や、リベラの外見上の印象(身長180㎝、体重150kg)から、フリーダの両親からはあまり祝福されませんでした。
23歳のとき、リベラの壁画制作のため、サンフランシスコに同行しました。
妊娠と流産を繰り返す
エラーサ博士の診断で、子供を中絶しました。
フリーダ・カーロ《ヘンリー・フォード病院》1932年
その後、2度の流産と中絶をします。
事故の影響で骨盤や子宮に損傷を受けていたためでした。
この出来事は、彼女に深い影を落とし、その後の作品に大きな影響を与えています。
リベラに同行してニューヨーク、デトロイトへ行きました。
悪いことは続き、リベラがニューヨークで描いた壁画に、アメリカ建国功労者と一緒にレーニンを並べたことが問題になり、夫婦は帰国しないといけなくなりました。
メキシコシティの新居兼アトリエでの暮らしが始まりました。
妹との不倫
27歳のとき、3回の手術のため(虫垂炎、妊娠中絶、右脚関節摘出)入院しました。
フリーダ・カーロ《ちょっとした刺し傷》1935年
その間に、子連れで戻ってきたフリーダの妹クリスティナとリベラが不倫…。
女好きのリベラは、それ以前にも浮気を繰り返しており、その全てを許してきたフリーダも、今回ばかりはあまりにもひどすぎるととても傷つき、この1年は1枚も絵を描かず、苦痛緩和に飲んでいたアルコールの量も一気に増えました。
28歳のとき、リベラと別居します。(別居して一人旅をして許してまた一緒に暮らして別居して…)
不倫と成功
フリーダ・カーロ《レオン・トロツキーに捧げる自画像》1937年
リベラへのあてつけのように、日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチと関係を持ちました。
30歳のとき、ロシアの革命家トロツキーと恋愛関係に。
フリーダ・カーロ《自画像「ザ・フレーム」》1938年
ハリウッドの名優で絵画コレクターのエドワード・G・ロビンソンが、作品を4点購入しました。
31歳のとき、ニューヨークでの初めての個展を開催し、成功を収めます。
写真家ニコラス・ムライと恋愛関係に。
32歳のとき、ルーヴル美術館が上の自画像を購入しました。
これは、ルーヴルが初めて購入した20世紀のメキシコ人画家の作品でした。
パリでフリーダの作品をメインとした「メキシコ展」が開かれました。
ピカソからてのひらをかたどったイヤリングをプレゼントされ、自画像に描き込みました。
離婚、再婚
フリーダ・カーロ《ふたりのフリーダ》1939年
ついにリベラと離婚しました。
フリーダ・カーロ《テワナ衣装の自画像》1940-1943年
33歳のとき、経済的に自立させること、性的関係は結ばないことなど条件付き(半別居、リベラの浮気は公認など)でリベラと再婚し、「青い家」に住み、今度は死ぬまで添い遂げました。
リベラはアナワカリ博物館建設に資金とエネルギーを投じ、フリーダはメキシコ文化セミナーのメンバーや文部省絵画彫刻学校の教師といった公職に就きました。
健康状態の悪化
フリーダ・カーロ《折れた背骨》1944年
37歳のとき、症状が悪化し、手術を繰り返します。
この頃には、整形外科医が鋼鉄製コルセットを装着させ、ベッドでの絶対安静を言い渡されていました。
寝たきりの状態になり、寝たままでも制作できるように、ベッド上に特製のイーゼルを取り付けました。
その後、2度にわたる大きな骨移植手術、その後の重い感染症、足指の壊疽などなど…
46歳のとき、右足の痛みが鎮痛剤では耐えられないほどになっていたため、膝まで切断することに。
以降フリーダは義足を使用することにより歩くことができるようになりましたが、生きる気力を失ってしまいます。
アルコール中毒と薬物中毒にも陥り、ふさぎこむようになり、日記には自殺のことが度々出てくるようになりました。
それでも絵だけは描き続け、ときに自宅でパーティーを催して華やかに装った姿を人々に見せ、人々を楽しませました。
メキシコで初の個展を開くことになり、フリーダは救急車に乗り、ベットで会場にやって来て、挨拶をしました。
フリーダ・カーロ《人生万歳》1954年
47歳のとき、肺炎を併発して、「青い家」で亡くなりました。
苦悩と苦痛に満ちた人生を送った彼女の絶筆が上の作品です。
果物は「豊穣」を意味し、1番手前のスイカには、フリーダのサインとともに「人生万歳」とスペイン語で綴られています。
この言葉は、死の1週間ほど前に書き加えられたといわれています。
まとめ
・フリーダは、苦悩や苦痛を力に、生きるために肖像画を描き続けた画家