「バティニョールのアトリエ」を超解説!バジールとファンタン=ラトゥールの友情?

こんにちは!

今回は、バジールとファンタン=ラトゥールのエピソードを紹介します。

早速見ていきましょう!

バジールとファンタン=ラトゥールの友情

アンリ・ファンタン=ラトゥール《バティニョールのアトリエ》1870年

ジャン・フレデリック・バジール《身繕い》1870年

バジールは、《身繕い》の制作に追われる傍ら、友人ファンタン=ラトゥールの制作する《バティニョールのアトリエ》のモデルも務めました。

バティニョールのアトリエ

アンリ・ファンタン=ラトゥール《バティニョールのアトリエ》1870年

1870年のサロンに出品し、大評判となった絵です。

しかし、一方で新聞記事に「マネが率いる宗教の教団のようだ」と書かれたりと、当時の印象派への風当たりの強さを感じたりも…。

サロンという場は、伝統的なアカデミズムな絵が評価される場所であり、当時の画家はサロンで評価されることこそが成功への道でした。

権威からのお墨付きのある絵の方が売れるというのは、絵に限らずある話だと思います。

ですが、そこからもうビックリするくらい外れていったのが印象派の画家たちです。

そんな全く新しい絵を酷評されながらも先陣を切って描いていたのがマネです。

この作品は、マネとマネの賛同者たちを、サロンが好む古典的な感じで描いた集団肖像画です。

登場人物

マネ以外の人物を、ジャケットにネクタイ姿で描くことによって、マネへの尊敬の念を表しています。

 

当時の常識をことごとく無視し、新しい絵画を生み出し続けた、印象派の先駆者マネ(38歳)が絵を描いています。

《バティニョールのアトリエ》というタイトルは、当時マネがパリのバティニョールにアトリエ持っていたことからきています。

ちなみに、マネの芸術に魅せられて集まってきた芸術家達のことを、バティニョール派と呼び、これがのちに印象派になります。

 

帽子をかぶっているのはルノワール(29歳)です。

 

背の高い人物はバジール(30歳)です。

 

バジールの後ろにはモネ(30歳)がいます。

 

マネの後ろにいるのは、画家のショルデラー(34歳)です。

 

画家で美術評論家のアストゥリュック(37歳)をモデルにマネが絵を描いています。

 

セザンヌリンゴを狂ったように描くきっかけをつくった小説家のゾラ(30歳)がいます。

 

ゾラの隣にいるのは、音楽家でバジールの親友のメートル(30歳)です。

 

知恵と芸術の女神ミネルヴァの像があります。

日本美術ブーム

ジャン・フレデリック・バジール《身繕い》1870年

バジールとファンタン=ラトゥールは、日本美術にハマり、バジールは《身繕い》に日本の着物を持つ3人目の女性を描き加えました。

 

ファンタン=ラトゥールは《バティニョールのアトリエ》に、日本から強い影響を受けた作陶家ローラン・ブヴィエの壺を描き入れました。

この頃、バジールは、ファンタン=ラトゥールがアトリエを構えるボザール通りに移りました。

ジャン・フレデリック・バジール《芍薬と黒人の女性》1870年

上の作品に、同じくブヴィエの壺を描いています。仲良し。

この作品は、バジールが出征前にパリで描いた最後の作品、つまり遺作です。

そしてバジールは、後の印象派の成功を見る前に、28歳という若さで戦死します。

ベラスケス「ラス・メニーナス」の影響

ディエゴ・ベラスケス《ラス・メニーナス(女官たち)》1656年

人物の配置や構図、キャンバスに向かう画家自身を描いているところから、ベラスケスの上の作品に影響を受けていると考えられています。

マネもベラスケスの筆致に影響を受けていたことから、ベラスケスにたとえてマネへの敬意を表しています。