こんにちは!
今回は、幻想的でどこかしら恐怖を感じる風景画を描いたフリードリヒについてです。
早速見ていきましょう!
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(1774-1840年)
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《自画像》1800年
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒは、ドイツのロマン派の画家です。
相次ぐ身内の死
ドイツのバルト海沿岸のグライフスヴァルトで、せっけんやろうそくを製造する実業家の10人兄弟の6番目として生まれました。
6歳のときに妹が亡くなります。
7歳のとき、母親も亡くなってしまいます。
13歳のときに、1歳下の弟が事故死します。
川に張った氷の上でスケート遊びをしていたとき、氷が割れ、溺れかけたフリードリヒを助けようとした弟が溺死してしまいました…。
17歳のとき、姉が自殺し、度重なる身内の死は、内向的な正確に拍車をかけました。
絵の世界へ
そんなフリードリヒを外に連れ出してくれたのが、大学の教師ヨハン・ゴットフリート・クヴィストルプでした。
20歳のとき、ヨハンの勧めでコペンハーゲン・アカデミーに入学します。
人物よりも風景に興味を持ちました。
自殺未遂
24歳のとき、芸術の街ドレスデンへ行、観光ガイドのバイトをしながら、スケッチを描く貧困生活を送ります。
29歳のとき、憂鬱に襲われ、喉を切って自殺を図ります…。
絵画コンクールで1位
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《山上の十字架》1803-1804年
31歳のとき、ゲーテ主催のワイマールの絵画コンクールにセピア画を出品し、1位に入選します。
この頃から油彩画を制作するようになります。
賛否両論
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《山上の十字架(テッチェン祭壇画)》1807-1808年
34歳のとき、上の作品で、賛否両論が巻き起こります。
「素晴らしい表現だ!」と評価する人がいる一方、ラムドール枢密顧問官のように「風景画が祭壇に上るなどけしからん!」と考える人もいました。
一気に有名に
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《海辺の修道士》1808-1810年
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《ブナの森の修道院》1809-1810年
36歳のとき、ベルリン・アカデミー展に出品した作品が、プロイセン皇太子買い上げとなりました。
この2点の作品で、一気に有名になり、ベルリン・アカデミー会員になりました。
40歳のとき、フランス軍からの解放記念展覧会に出品します。
42歳のとき、ドレスデン・アカデミー会員になり、アカデミー教授となりました。
結婚
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《窓辺の婦人》1822年
44歳のとき、19歳年下の25歳のカロリーネ・ポマーと結婚し、3人の子供が生まれます。
結婚後の作品は、以前に比べて色使いが明るくなり、テーマに優しさが現れています。
49歳のとき、ノルウェーの画家ヨハン・クリスティアン・ダールと親しくなり、部屋を貸します。
数ヶ月後、妻と彼の仲を疑い、仲違いをして翌年ダールは出ていきました。
病と傑作
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《氷の海》1823-1824年頃
51歳のとき、脳卒中で倒れ、以降度々発作に見舞われました。
この頃には、人気が徐々に無くなり始め、比較的貧しい生活を送っていたそう。
当時はあまり人気がありませんでしたが、現在では、名作と評価される作品を多数制作しました。
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《人生の諸段階》1835年頃
61歳のとき、脳卒中で右手がマヒし、油絵が描けなくなり、セピア画に戻りました。
65歳で亡くなりました。
まとめ
・フリードリヒは、幻想的で死を感じさせる宗教的な風景画を描いた画家