こんにちは!
今回は、バルテュスについてです。
早速見ていきましょう!
目次
バルテュス(1908-2001年)
バルテュス《猫たちの王》1935年
バルテュスは、フランスの画家です。
上の絵は、バルテュスの自画像です。
本名はバルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラです。
芸術一家
パリで、ポーランドの貴族の血を引く(とバルテュスが主張している)画家で美術史家の父親と、同じく画家だった母親の間に生まれました。
兄は哲学者兼作家で、マルキ・ド・サドやニーチェの研究者として知られています。
両親はマティスやボナールと友人で、自宅の壁にはセザンヌやドラクロワの絵を飾っていました。
しかし、両親はバルテュスが美術の道に進むことに対してボナールらとともに反対したため、ほぼ独学で美術を学ぶことになります。
6歳のとき、第一次世界大戦が勃発し、ドイツ国籍だったバルテュス一家はベルリンへ移りました。
9歳のとき、両親が別居することになり、母親と一緒にスイスへ引っ越しました。
11歳のとき、母親が詩人のリルケと恋愛関係になります。
ちなみにバルテュスとリルケの関係も良好でした。
バルテュスはカルヴァン中学校に入学しました。
12歳のときには、中国や日本などの東アジア文化に強い関心を示していました。
13歳で画集を出版
バルテュス《ミツ》1919年
13歳のとき、40点のドローイングを収録した画集『ミツ』を出版しました。
リルケが序文を寄せています。
この本は若い青年(バルテュス自身)と愛猫の物語で、かわいがっていた猫がいなくなってしまう「喪失」がテーマでした。
この本で使われたペンネームが「バルテュス」だったことから、以後、バルテュスの名で活動しました。
ベルリンに移り、ベルリン民族学博物館で日本人形に影響を受けました。
14歳のとき、リルケの薦めで岡倉天心の『茶の本』のドイツ語版などを読み、東洋文化にさらに影響を受けました。
芸術家マルグリット・ベイに出会い、その後5年間ベイの助手を務めました。
15歳のとき、母親とバルテュスは、ベアーテンベルクに移住しました。
ほぼ独学で勉強
16歳のとき、兄のいるパリで過ごしました。
グランド・ショミエールに自由聴講生として通い、ボナールやドニに素描を見せました。
17歳のとき、2人からルーブル美術館でプッサンの作品を摸写するよう勧められ、《エコーとナルキッソス》を摸写しました。
ベルンの貴族で、当時12歳だったアントワネット・ド・ヴァトヴィルと知り合いました。
18歳のとき、フィレンツを訪れ、アレンツォのサン・フランチェスコ聖堂とサンセポルクロ市立美術館で、ピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画に影響を受けて模写しました。
以後、マザッチョやマゾリーノなど、ヨーロッパ古典絵画の巨匠たちの絵の摸写ををし、独学で絵を学びました。
リルケが亡くなりました。
19歳のとき、スイスのベアテンベルクのプロテスタント教会の壁画を手がけました。
20歳のとき、チューリヒに滞在し、アントワネットと恋に落ちました。
初の展覧会
バルテュス《街路》1929年
21歳のとき、チューリヒのフェルター画廊で、10枚ほどのバルテュスの絵画が展示されました。
これがバルテュスの最初の展覧会でした。
22歳から2年間、バルテュスはモロッコに住み、ケニトラやフェスでモロッコの歩兵に徴兵され、秘書として働きました。
バルテュス《街路》1933年
25歳のとき、兵役を終えてたバルテュスは、パリに戻り、ファステンバーグ通りのスタジオで画業を再開しました。
アンドレ・ドランと親交を結びました。
ウーデが紹介したピエール・ロエブ(ピエール画廊)は、上の絵に強く感銘を受けました。
アンドレ・ブルトンをはじめとするシュルレアリスムのメンバーが、バルテュスの噂を聞いて頻繁にアトリエを訪問し始めました。
しかし、バルテュスはキュビスムやシュルレアリスムといった前衛美術に関心をもつことはなく、また、シュルレアリストたちも期待と異なるバルテュスの自然主義的な具象絵画に落胆しました。
ただ、このときアトリエを訪れたシュルレアリストだったジャコメッティと親交を深め、その後も長く付き合うになりました。
バルテュス《鏡の中のアリス》1933年
バルテュスが一般的に「思春期の少女の絵ばかり描く画家」のイメージがつき始めるのもこの頃からでした。
26歳のとき、ピカソがバルテュスを訪問しました。
最も有名で悪名高い作品
バルテュス《ギターのレッスン》1934年
ピエール画廊で初の個展で、バルテュスの作品の中で最も有名で悪名高い上の絵が、スキャンダルを巻き起こしました。
作品の売り込みに苦労したバルテュスは一時衝撃的な題材を描き、話題集めようとしました。(結局話題にはなりましたが作品は全然売れず)
ギャラリーの奥の部屋のカーテンで仕切られた場所で15日間展示された同作は、音楽教師とギターの代わりに膝の上に乗せられた少女が描かれています。
この作品は、多くの鑑賞者に不快感や動揺を与えました。
数十年後、バルテュスはこの作品について、「当時は貧しかった。その状態から抜け出す唯一の方法が、物議を醸すことだった。成功したよ。過剰なほどにね」と語っています。
これは、売名をひどく嫌ったバルテュスらしからぬ発言でした。
ブリュッセルで『ミノトール』誌の展覧会に出品しました。
シャンゼリゼ劇場の『お気に召すまま』の舞台装置と衣装を担当しました。
27歳のとき、アルトーの『チェンチ一族』の舞台装置と衣装を担当しました。
バルテュス《『嵐が丘』の挿絵》1933-1935年
エミリー・ブロンテの『嵐が丘』の挿絵を制作しました。
この挿絵は、シュルレアリスムの雑誌『ミノトール』誌上に掲載されたり、ロンドンで展示されたりしました。
最初の結婚
バルテュス《キャシーの化粧》1933年
1937年にバルテュスは、アントワネットと最初の結婚をしました。
上の絵のモデルは彼女です。
2人の間には、2人の息子が生まれました。
最初の少女モデル テレーズ
バルテュス《テレーズ》1938年
フェルスタンベール街からクール・ド・ロアンのアトリエへ移り、この近くで、最初の少女モデルとなったテレーズ・ブランシャールと出会いました。
バルテュス《夢見るテレーズ》1938年
バルテュスは、テレーズとその絵について「これから何かになろうとしているが、まだなりきっていない。この上なく完璧な美の象徴」と語っています。
バルテュスにとっての「完璧な美」とは、「出来上がった状態」ではなく「移行している状態」のことを意味していました。
つまり上の作品は、無垢から性への目覚めへの思春期少女を通して「移行の美」を表しています。
第二次世界大戦
バルテュス《ピエール・マティス》1938年
30歳のとき、ニューヨークのピエール・マティス画廊で最初の展覧会が開かれました。
ピエールは、画家アンリ・マティスの次男で画商でした。
31歳のとき、第二次世界大戦勃発により、アルザスに送られましたが、負傷してパリに帰還しました。
32歳のとき、シグリスヴィルで数週間療養後、ナチス・ドイツによるフランスの侵攻により、バルテュスは妻とともに、フランス南東のエクレスバン近くのシャンプロヴァンにある農場へ避難し、その後ベルンへ移りました。
ピカソが購入した絵
バルテュス《ブランシャール家の子どもたち》1937年
33歳のとき、ピカソがピエール・コルから上の絵を購入しました。
バルテュスは生存中にルーブル美術館に展示された数少ない画家の一人でしたが、この作品が展示されていました。(現在はパリのピカソ美術館に寄託)
35歳のとき、ジュネーブのモース画廊で個展を開きました。
別居
バルテュス《美しい日々》1944-1946年
37歳のとき、ジュネーブ近郊のコロニーのヴィラ・ディオダティに居を構え、アンドレ・マルローたちと親交を結び、ジャコメッティと再会しました。
クンストハレ・ベルンのための「エコール・ド・パル」展のコミッショナーを務めました。
パリに滞在しました。
38歳のとき、クンストハレ・ベルンで「エコール・ド・パリ」展が開催されました。
アントワネットと別居しました。
離婚後もアントワネットとは生涯友人であり続けました。
アンリエット・ゴメスがバルテュスの展覧会を開催しました。
バルテュス《地中海の猫》1949年
ジョルジュ・バタイユの娘ローランスと出会いました。
上の絵の左側の女性は、彼女がモデルです。
39歳のとき、アンドレ・マッソンと南フランスを旅行し、ピカソやジャック・ラカンなどのバルテュス作品のコレクターたちと再会しました。
40歳のとき、ボリス・コフノのバレエ『画家とモデル』の舞台装置と衣装を担当しました。
42歳のとき、カッサンドルとバルテュスは、エクサン・プロヴァンス国際音楽祭のためにモーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』の舞台装置と衣装を担当しました。
43歳のとき、イタリアに滞在しました。
義理の姪とのあやしい関係
バルテュス《部屋》1952-1954年
45歳のとき、パリを離れ、収集家や画商たちから援助してもらい、ブルゴーニュ地方のキャシーの城へ移り住みました。
バルテュス《白い部屋着の少女》1955年
そこへ義理の姪のフレデリック・ティゾン(兄の妻の連れ子)がやってきて、54歳まで一緒に暮らしました。
上の絵は、彼女がモデルです。
バルテュス《リビング》1942年
48歳のとき、ニューヨーク近代美術館で展覧会が開催されました。
バルテュスは国際的に名が知られるようになりました。
また、同時に謎めいた人物としてのイメージがつきまとい始めるようになりました。
52歳のとき、ジャコメッティのもとを訪問した際、当時ジャコメッティのためにモデルをしていた大阪大学の哲学教授、矢内原伊作と知り合いました。
53歳のとき、文化大臣アンドレ・マルローからローマにあるヴィラ・メディチ(芸術のためのフランス大使館の役割をもっていた)のアカデミー・ド・フランス館長に任命されました。
ほとなくして同館の建物の修復に取り組みました。
日本来日と恋
バルテュス《節子の肖像》1962年
54歳のとき、マルローの依頼により、パリでの日本古美術展の作品選定のために日本に派遣されることになりました。
矢内原と再会し、三島由紀夫を訪問しました。
旅行の案内をした20歳の大学生、出田節子と出会い、心を奪われました。
その年の差は、なんと34歳で、バルテュスの長男スタニスラスと同い年でした。
彼女も画家で、京都の歴史ある武士の家系でした。
バルテュスは、ほんのわずかでも年齢差を小さく見せようと、4歳サバを読んでいたそう。
当時、まだ離婚しておらず、城館で8年間も生活をともにしていた義理の姪フレデリック・ティゾンもいました。
結婚
バルテュス《トルコ風の部屋》1965-1966年
59歳のとき、節子と結婚しました。
バルテュスの意志により、節子夫人は基本的に和服を着て生活していました。
この頃からバルテュスの絵の中に日本美術の影響が見られ始め、日本の絵画や浮世絵に関する書物の購入や歌舞伎に興味を持ち始め、マルローへのお土産も招き猫でした。
1966年、パリ装飾美術館で回顧展が開かれました。
バルテュス《赤いテーブルと日本人女性》1967-1976年
結婚を機に、2度目の来日を果たしました。
ヴィラ・メディチの庭園の修復に着手しました。
60歳のとき、息子の文夫が誕生しましたが、早くも2歳で亡くなってしまいました。
65歳のとき、娘の春美が誕生しました。
彼女は現在、ジュエリーデザイナーとして活躍しています。
終の住処
69歳のとき、アカデミー・ド・フランスの館長職を終えて、妻とともにスイスのロシニエールに移りました。
一家の屋敷、グラン・シャレは、18世紀に建てられたスイス最大級の木造建築でした。
72歳のとき、ヴィネツィア・ビエンナーレに出品しました。
75歳のとき、3度目の来日を果たしました。
皇太子同妃両殿下に会った際、春美は東宮御所の水槽で育てられている稀少な魚を見せてもらったそう。
パリ国立近代美術館で回顧展が開かれました。
76歳のとき、ニューヨーク・メトロポリタン美術館での回顧展が開かれました。
4度目の来日を果たしました。
京都市美術館での回顧展が開かれました。
81歳のとき、東京で開催された節子夫人の個展のために、5度目の来日を果たしました。
83歳、85歳のとき、来日しました。生涯で7回、バルテュスは日本に行きました。
86歳のとき、香港、北京、台北で回顧展が開かれました。
ロシ二エールで日本の俳優・勝新太郎の訪問を受けました。
93歳のとき、亡くなりました。
葬儀にはサドルディン・アガ・カーン王子やU2のボノなどが出席しました。
まとめ
・バルテュスは、「移行の美」を表すために少女を描いた画家