こんにちは!
今回は、ゴッホの失恋についてです。
早速見ていきましょう!
ゴッホ5つの失恋
ゴッホは、37年という短い生涯で、何人もの女性に恋をし、家族を持つことを夢見ていました。
しかし、その恋が一度も上手くいくことはありませんでした。
下宿先の娘ユルシュラ
ゴッホ20歳のとき、下宿先の娘ユルシュラに恋をし、1年間思いを温めてから告白をしましたが、婚約者がいると言われ断られます。
(といわれていましたが、最近の研究でユルシュラは娘ではなく母親の名前だったことから、このエピソードの信憑性は微妙なところ…)
ユルシュラではなかったにせよ、テオ宛の手紙で、「20歳のときにある娘をあきらめた。彼女は別の男と結婚した」と書いていることから、似たようなエピソードは実際にあったと考えられています。(遠い親戚のカロリーン説もあり)
どちらにせよ、孤独を深めたゴッホは、宗教(キリスト教)にのめり込むようになります。(ゴッホは当時、画家ではなく聖職者を目指していました)
いとこで未亡人のケー
ケー・フォスと息子のヤン 1879-1880年
28歳のとき、最近夫を亡くし、8歳の子供がいた7歳年上のいとこ、ケー・フォス・ストリッケル(母の姉とストリッケル牧師との間の娘)がエッテンを訪れました。
ストリッケル牧師は、ゴッホが24歳のとき、聖職者になるための受験勉強の面倒を見てくれた伯父さんでした。
ゴッホはケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになりました。
未亡人のケーに求婚しますが、「とんでもない、だめ、絶対に。」という言葉で拒絶され、打ちのめされます。
ケーはアムステルダムに帰ってしまいましたが、ゴッホは彼女への思いを諦めきれず、ケーに何度も手紙を書きました。
そして、テオに無心したお金で、アムステルダムのストリッケル牧師の家を訪ねました。
しかし、ケーからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと非難されてしまいます。
絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください。」と迫りましたが、夫妻は、ランプを吹き消して、会うことはできないと言うのみでした。
伯父ストリッケル牧師に頑なに拒絶されたことから、もともと父親(牧師)との関係が上手くいってなかったゴッホは、聖職者に不信感を持つようになりました。
アル中病気で子連れで妊婦で娼婦のシーン
フィンセント・ファン・ゴッホ《悲しみ》1882年
29歳のとき、ゴッホはこの頃にクラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)という、アル中病気持ち子持ちで妊婦の娼婦をモデルとして使いながら、弟テオのお金を使って彼女の家賃を払ってあげるなどの援助をし、結婚しようとしていました。
もちろんゴッホの家族は大大大反対でしたが、シーンの家族も反対していました。
《ゆりかごの前にひざまずく少女(マリアとヴィレム)》1883年
ゴッホは、淋病で3週間入院し、退院直後、今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めました。
《ダークキャップの女性(シーンの母親)》1883年
冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描しました。
ゴッホはそこで1年余りシーンと家族ごっこをしていましたが、30歳のときには、シーンとの関係が悪化し、精神的に不安定になります。
ゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に出て油絵の修行をすることを考えました。
そこでシーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合いました。
シーンと別れたことを父に知らせ、ドレンテ州のホーヘフェーンへ発ちました。
ゴッホが去った後、シーンも他の街を転々とする日々を送りました。
《子供を抱く母親》1882年
ヴィレムは里子に出され、シーンの親族に引き取られて養育されました。
後年になってシーンの叔父はヴィレムを正式に跡取りにするため、シーンと形だけ籍を入れることを提案しました。
しかしシーンは申出を拒否すると「私はこの子の父親を覚えています。フィンセント・ファン・ゴッホはこの子の名の由来なのですから」と告げました。
《ストーブのそばに座っている女性(シーン)》1882年
しかし、ゴッホがシーンと出会った時には彼女は既に妊娠していました。
1904年、54歳のシーンは川に身を投げ、自殺しています。
マルホットは自殺未遂
31歳のとき、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になりました。
しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットはストリキニーネを飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、村のスキャンダルとなりました。
この事件をめぐる周囲との葛藤や、友人の画家ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などに追い詰められたゴッホは、再び父との争いを勃発させました。
お世話になったカフェ店主セガトーリ
フィンセント・ファン・ゴッホ《カフェ・タンブランの女(アゴスティーナ・セガトーリ)》1887年
33歳のとき、カフェ・タンブランの女店主アゴスティーナ・セガトーリにモデルを世話してもらったり、絵を店にかけてもらいました。
冬には上の彼女の肖像を描いたりしましたが、彼女に求婚して断られ、店の人間とトラブルになっています。
《アゴスティーナ・セガトーリの肖像》1887年
彼女の店でゴッホは、自分の浮世絵コレクションの展示もしています。
詳細はこちら↓