こんにちは!
今回は、破滅の道を突き進んだ画家モディリアーニを紹介します。
早速見ていきましょう!
目次
アメデオ・モディリアーニ(1884-1920年)
アメデオ・モディリアーニ《自画像》1919年
アメデオ・モディリアーニは、イタリアの画家です。
派手な女性関係から、「モンパルナスの貴公子」と呼ばれていたそう。
病弱で甘えん坊
イタリア、トスカーナ地方の港町リヴォルノに、4人兄弟の末っ子として生まれました。
末っ子で病弱だったこともあってか周りから「アメディオ(神に愛される者)」と呼ばれ、甘やかされて育ちました。
父親はローマから来たユダヤ人、母親はスペイン系ユダヤ人でした。
モディリアーニ家は、林業や鉱山を経営していましたが、モディリアーニが生まれた年に倒産しています。
父親は、モディリアーニの幼少期に旅行をすることが多く、モディリアーニの話し相手になっていたのは、博学な母方の祖父でした。
彼は、モディリアーニに芸術や哲学の話を聞かせていました。
モディリアーニは病弱で学校には通えず、教養豊かな母親や伯母から文学、哲学を教わりました。
結核と芸術
14歳のとき、地元の画塾に通い、デッサンの指導を受けます。
ここでオスカル・ギリアと仲良くなります。
17歳のとき、結核の転地療養のため、母親とナポリ、カプリ、アマルフィ、ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアを旅行します。
このとき訪れた教会などで見たイタリア美術、特に14世紀シエナ派のティーノ・ディ・カマイーノの彫刻に強い感銘を受けます。
このときの強い印象については、友人のオスカルに何度も手紙を書いています。
18歳のとき、フィレンツェに行き、裸体画教室で学びます。
19歳のとき、ヴェネツィアに移住し、美術学校に入学します。
カルパッチョ、ベリーニ、シエナ派の研究を行いました。
21歳のとき、援助してくれていた伯父が亡くなり、パリへの移住が先延ばしとなります。
パリへ
アメデオ・モディリアーニ《ピカソの肖像》1915年
22歳の冬、母親が資金を与えてくれたおかげでパリへ移住できることに。
モンマルトルにアトリエを借ります。
そこは集合アトリエ兼アパートの「洗濯船」に近く、モンマルトルの画家たちと知り合います。
この頃、ピカソや詩人アポリネールらと仲良くなります。
23歳のとき、セザンヌの回顧展を見て、フォルムに影響されます。
パリで最初に絵を買ってくれたのは…
《ポール・アレクサンドル博士の肖像》1909年
若い医師であり、美術愛好家でもあるポール・アレクサンドルの勧めで、アンデパンダン展に出品するようになります。
アレクサンドルは、モディリアーニの絵を、パリで最初に購入した人物でした。
彫刻の粉が肺にしみる…
《女性の頭部》1911-1912年
25歳のとき、モンマルトルからセーヌ川を挟んで向かいのモンパルナスに移り住みます。
モンパルナスは安アパートが多く、外国人が住んでいました。
そこに集まった外国人の画家たちを「エコール・ド・パリ」と呼びました。
彫刻家のブランクーシと仲良くなり、26歳頃から彫刻作品を制作するようになります。
しかし彫刻の材料が高価なため、資金不足に。
そこで、工事現場から石を持ち出していたそう。
さらに、彫刻制作中に飛び散る石の粉が、弱い肺にはキツかったこともあり、途中で断念します。
ちなみにこの後、石の粉がダメなら木を彫ろう!ということで、(木材を買うお金もないので)木材を手に入れるため、当時建設中だったメトロの工事現場に忍び込み、線路から枕木を盗み、木造彫刻をつくりました。
モディリアーニの描く特徴的なアーモンドのような目と長い首、卵形の顔は、彫刻の影響だといわれています。
自分の彫刻作品を写真に撮り、いつも持ち歩いていたモディリアーニは、故郷リヴォルノで友人にその写真を見せると、「狂ってる、やめたほうがいいよ」と言われてしまったそう…。
画家になる!
《ポール・ギヨームの肖像》1915年
30歳のとき、パリでも著名な画商だったポール・ギヨームと出会い、彼や友人のマックス・ジャコブの勧めもあって、31歳くらいから絵画に専念するようになります。
当時、スーティン、藤田嗣治、ユトリロと仲が良かったそう。
アル中ヤク中
《ベアトリス・ヘイスティングスの肖像》1915年
モディリアーニは、女性に救いを求め、モデルを頼んだ女性と必ず深い仲になったといわれています。
イギリス人ジャーナリストのベアトリス・ヘイスティングスと同棲し始めるるも、2年で終わりを迎えます。
2人とも、酒と麻薬に浸る生活を送るアル中とヤク中でした…。
同じ頃、第一次世界大戦が勃発し、モディリアーニは病弱なため兵役を免れることができましたが、パリでモディリアーニの絵を初めて買ってくれてから長く親交のあったアレクサンドルは召集されてしまい、その後会うことはありませんでした。
貧乏画商と貧乏画家
《レオポルド・ズボロフスキーの肖像》1916-1919年
33歳のとき、画商レオポルド・ズボロフスキーと専属契約し、絵が売れ始めます。
絵を全て引き取る代わりに、画材などを提供してもらいました。
ちなみにズボロフスキーも貧乏で、タバコ代を節約し、宛名書きのバイトで資金をつくっていたんだとか…。
運命の相手
《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》1918年
美大のお祭りで19歳の画学生ジャンヌ・エビュテルヌと知り合い、同棲を始めます。
風紀上の問題で個展が即中止に
《横たわる裸婦》1917-1918年
ベルト・ヴァイル画廊で、最初で最後の個展を開くも、初日に風紀上の問題で中止になります。
上の作品のような裸体画が原因でした。
34歳のとき、スーティンや藤田嗣治と共にコート・ダ・ジュールを旅行します。
浮気…?
《扇を持ったルニア・チェホフスカの肖像》1919年
ジャンヌが第2子を妊娠中、モディリアーニは、革命家の詩人を夫にもつ、ロシア出身の上流階級のポーランド人ルニア・チェホフスカと親密な仲に…(肉体関係はなかったともいわれています)
彼女は画商ズボロフスキーの妻アンナの友人で、絵の中の赤い壁は、ズボロフスキー家の内装を再現したものだといわれています。
貧困と病と…
《ジャンヌ・エビュテルヌと黄色いセーター》1918-1919年
娘ジャンヌが生まれるも、彼女の両親は結婚に反対しました。
この頃のモディリアーニは、カフェで客の似顔絵を描いて、それをなかば無理やり売り付けて、小銭を稼いでは夜の街を徘徊し、酒と麻薬に使ってしまう日々…。
そんなモディリアーニを身重のジャンヌが一晩中探し回ることもあったそう。
貧困と肺結核に苦しみ、不摂生で荒廃した生活の末、35歳の1月のある日、アトリエで倒れ、医者にもかからず2日後に、結核性髄膜炎で亡くなりました。
ジャンヌのお腹には赤ちゃんがいました。妊娠9ヶ月目でした。
モディリアーニの死後2日後、ジャンヌは2歳の娘を残して後を追ってアパートから飛び降り自殺しました。
残された娘ジャンヌはどうなったかというと、しばらくの間、画商ズボロフスキーの家に預けられ、なんとあのルニアが世話をしていたそう。
その後ジャンヌを育てたのは、モディリアーニの妹マルゲリータでした。
まとめ
・モディリアーニは、アーモンドのような瞳のない目の絵を描いた画家