こんにちは!
今回は、現在の印象派の人気をつくった画家メアリー・カサットについてです。
早速見ていきましょう!
目次
メアリー・カサット(1844-1926年)
メアリー・カサット《自画像》1878年
メアリー・カサットは、アメリカの画家です。
彼女がアメリカに印象派を広めてくれたからこそ、現在の人気があると言っても過言ではありません。
モリゾ同様に品のよい上層ブルジョワ階級の家庭で文化的な教育を受け、画家としても自分たちが属した階層の女性や家庭生活を描いたモリゾとカサットは、当時から批評家に一緒に論じられることがよくありました。
しかし、カサットが女性として送った人生は、フランス人のモリゾとはずいぶんと違うものでした。
世界中を旅
アメリカ合衆国ペンシルベニア州アレゲニー市(現ビッツ バーグ市)で生まれました。
父親はやり手の株式仲介人、母親の実家は銀行家という裕福な家庭でした。ブルジョワです。
カサット家はフランス人ユグノー(プロテスタント)の末裔で、1668年にオランダ経由でニューヨークに渡ってきた、アメリカ合衆国独立前から入植している歴史的にも古い一族でした。
カサットは、「魂が抜かれる」といった迷信からではありませんでしが、プロテスタントらしく虚構に対する戒めが刷り込まれていたのか、写真を撮られることさえも嫌がり、すぐに横を向いてしまうような性格でした。
父親はアレゲニー市長も務めています。
兄のアレクサンダーも後にペンシルベニア鉄道の社長を務めるなど、実業界の名門一族でした。
そして、この実業家の資質はカサットにも流れていました。
彼女のアドバイスのおかげで、アレクサンダーはペンシルベニア鉄道にヨーロッパの鉄道の旅客サービスを取り入れ、アメリカの鉄道のサービスが向上しました。
そして、印象派の作品を投機対象としても見ることができ、知人に動めたのもカサットでした。
ちなみに、アレクサンダーは、第15代アメリカ大統領ジェームズ・プキャナンの姪と結婚しています。
ここからもカサット家がアメリカ社会で占めていた地位がうかがえます。
カサット家の教育方針として、世界中を旅行しながら育ちました。
10歳になるまでに、ロンドン、パリ、ベルリンなど、ヨーロッパの都市を回りました。
フランスとドイツに長期滞在し、当時のアメリカにはない文化に影響を受けながら成長しました。
また、高い教養の持ち主だった母親が、子供たちにフランス語を教えました。
他にもドイツ語を学び、デッサンも習いました。
こうした両親の教育方針のおかげで、カサット家の子供たちは幼い頃から国際感覚を身につけることができました。
アレクサンダーとカサットは、独立心と義務感が強く、知的で勇敢で寛大だった母親の気質を5人兄弟の中でも強く引き継いでいました。
この母親の教育により、自惚れや気まぐれがない性格に成長したカサットは、一方では非常に合理的な考えの持ち主でもありました。
そして、皆に誠実で親切だった彼女は、印象派の他の仲間たちに比べて素直に他者を賞賛したところなど、現代の多くのアメリカ人にも通ずる人のよさがありました。
カサットの性格には、フランスの上層ブルジョワ階級の優雅さとは少し違った、アメリカの上流階級特有のリラックスした品のよさがありました。
そしてその優れた資質は、後に温かい母子像など彼女の作品にも表れることになります。
画家になる!
デッサンはお嬢様の習い事としてメジャーでした。
しかし、その域を超えて絵を描くことにハマったカサットは、両親の反対を押し切り、画家になることを決意します。
その旨を父親に伝えたところ、「それなら死んでくれたほうがまだましだ」という言葉が返ってきました…。
しかし、たくましい性格の持ち主だったカサットは、17歳のとき、フィラデルフィアのペンシルべニア美術アカデミーに入学して絵画制作の基礎を学びました。
フランスの官立美術学校が1897年まで女性の入学を認めなかったことに比べると進歩的なアメリカでしたが、ペンシルベニア美術アカデミー自体はロンドンの王立美術院同様に、本場フランスのものをモデルにしたものでした。
この頃からアメリカは、経済的にはヨーロッパの一歩先を歩むようになっていましたが、文化的にはヨーロッパ、それも特にフランスに対しての文化コンプレックスはものすごいものがありました。
多くのアメリカ人はフランスの文化レベルの高さや優雅さに圧倒されていました。
しかし、退屈な授業と、男子生徒から馬鹿にされることにうんざりし、退学します。
芸術といえばパリ
22歳のとき、ちゃんとした巨匠の下で勉強しようと、父親の大反対を押し切りパリへ留学しました。
当時、女性が1人で出かけることも、知人の紹介なしに男性に話しかけることもタブー視されていた時代です。
なので彼女もひとりでパリに行ったわけではなく、母親と、家族の友人が付き添いとして共に行動していました。
当時、女性はまだエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学することができなかったため、新古典主義の歴史画家ジェロームや、風俗画家シャルル・シャプランに学び、その後にはトマ・クチュールの画塾で学びました。
クチュールはマネの師でもあり、ロマン主義や写実主義を取り入れ、新古典主義の画家としては世間から革新的と見なされていました。
毎日ルーヴル美術館に通い、熱心に模写しました。
女性は男性のように気軽に街のカフェに行くことができないので、美術館が女性の社交場でした。(男性の印象派の画家たちは、よくカフェに集まって討論していました)
アメリカ人女性で初のサロン入選
メアリー・カサット《マンドリン演奏者》1868年
24歳のとき、上の風俗画をサロンに出品し、初入選しました。
アメリカ人女性として初のサロン入選でした。
ただし、「メアリー・スティーヴンソン」と、本名から「カサット」を抜いた名前で出品しました。
戦争でアメリカへ帰国
26歳のとき、普仏戦争が勃発したため、アメリカに帰国しました。
相変わらず娘が画家になることに反対していた父親は、彼女の生活の面倒は見ても画材など制作のための費用は出してくれませんでした。
さらに、実家は小さな町にあったので、画材やモデルを得ることが困難でした。
そのため、一時期は画家になるという夢を諦めようとしていました。
再びヨーロッパへ
メアリー・カサット《バルコニーにて》1873年
しかし、27歳のとき、ピッツバーグの大主教がカサットの絵に興味を持ち、ヨーロッパ中を旅した後でいいから、イタリアの絵画(コレッジョの作品)を模写して欲しいという依頼を受け、再びヨーロッパに行きました。
ヨーロッパの主だった美術館をめぐり、独学で絵を勉強しました。
パルマに落ち着いた後、カサットはスペインを訪れました。
文明の先端を誇っていた当時のアメリカ人女性にとって、アメリカに比べれば発展途上だったスペインを旅するだけでもとても勇気のいることでした。
マドリッドとセビリアを訪れたカサットは、 スペインを代表する巨匠ベラスケスとゴヤに影害を受け、スペイン趣味が表れた作品を残しています。
上の絵なんかは、スペインの巨匠ゴヤの《バルコニーのマハたち》っぽさがあります。
その絵についてはこちらから見れます↓
1回目の印象派のグループ展が開かれた1874年のサロンには、滞在中だったローマから初めて本名で出品しました。
その作品を観たドガは、 「私と同じように感じる人がいる」と、カサットのことを友人に伝えています。
その年の秋になると、カサットは姉のリディアとともにパリに暮らすことを決意しました。
パリに戻ったカサットは、美術界を支配していたアカデミズムとサロンに疑問を抱き始め、公然と非難するようになっていきます。
その後パリへ行き、ピサロの下で絵を学びました。
サロンへの失望
31歳のとき、サロンに出品した2作品のうち、1作品が落選します。
翌年、背景を暗くして再度提出するとなんと入選…。
サロンの審査のいい加減さにうんざりします。
偶然見たドガの絵
31歳のとき、パリのオスマン通りにある画廊の店のウインドーで1枚の絵を見かけます。
それはドガのパステル画でした。
その絵を見て、アカデミズムとサロンに反抗しているのは自分だけではないことを知りました。
ドガこそ、カサットが探し求めていた芸術家でした。
印象派展
30歳のとき、共通の友人の紹介でドガと対面しました。
ドガとは仲が良かったようですが、カサットが亡くなる前にドガからの手紙を全て燃やしているので、詳しくはわかっていません。
独身を通したカサットと、同じく独身を通したドガとの関係は、親しい師匠と弟子、または同志のような関係でした。
毒舌家だったドガに対し、当意即妙の対応でかわすことができたのも知的なカサットだからこそでした。
もちろん、ドガの暴言のために何度も仲たがいをしています。
たとえカサットがドガに恋心を抱いていた時期があったとしても、そのような感情を自分に向けられることを嫌ったドガに対し、賢明なカサットが自分の感情を見せたとは思えません。
モリゾもそうですが、ブルジョワ階級の女性が、自分の「恋心」をあからさまにアピールするようなことはしませんでした。
33歳のとき、サロンに出品しましたが落選し、落ち込みます。
以後、二度とサロンに出品することはありませんでした。
尊敬するドガから、自分たちのグループ展への参加を誘われ、審査委員の意見に煩わされることにうんざりしていた彼女は喜んで申し出を受けました。
この年には両親もアメリカからパリに移り住み、カサットとリディアとともに暮らすことになりました。
腎炎を患うリディアと暮らすためでした。
このような家庭環境による拘束もあり、カサットは身近な家族しか描けなくなってしまいます。
しかしその結果、カサットの作品には、カサット家に漂うアメリカの上層ブルジョワ階級特有のさり気ない優雅さと親密感があふれています。
病弱なリディアもカサット同様独身だったため、2人はモリゾと姉エドマのようにとても親密な関係でした。
カサット自身は結婚すること自体を諦めていました。
画家としてしなくてはならない仕事の量の多さから、そのキャリアと結婚生活が両立しないと考えていました。
メアリー・カサット《桟敷席にて》1878年
私的な面では繊細な神経の持ち主でもあったカサットでしたが、晩年は婦人参政権運動にも参加するなど、アメリカ人らしく女性の社会的地位に関する意識に対しては強いものがあり、政治的意識とまではいかないまでも、彼女の社会的意識が作品にも表れることがありました。
たとえば《桟敷席にて》では、 観劇する女性の背景に、桟敷席からオペラ・グラスを使ってあからさまに彼女を「品定め」している男性を描くところなど、当時の男性優位社会において女性画家としては非常に勇気ある表現でした。
また、《「ル・フィガロ」を読む(画家の母親の肖像)》(1878)では、眼鏡をかけて新聞を読むという本来なら男性にふさわしいポーズでパリに移住した直後 の母親の姿を描いています。
どんなに高い知性や教養の持ち主であっても、女性というだけで社会の枠に縛られてしまっていた当時としては、これも非常に挑戦的で主張性の強い作品でした。
ちなみにこの作品は、1879年にアメリカ美術協会がニューヨ ークで開いた展覧会に出品され、全出品作の中で最も優れた作品と大絶賛されています。
カサットは、尊敬していたドガ同様に油彩画だけでなくパステル画や版画も制作しました。
メアリー・カサット《青い肘掛け椅子に座る少女》1878年
そして35歳のとき、第4回印象派展から参加するようになりました。
上の作品はそのときに出品した作品です。
モデルの少女はドガの知り合いの娘、ドガからプレゼントされた子犬が描かれています。
以後グループ展に関してはドガと行動を共にし、第7回展(1882年)にドガが不参加を決めたときは同じように彼女も参加していません。
同じ女性画家として家庭生活を描くことが多かったカサットとモリゾは、多くは批評家から同じように評価されていましたが、アカデミックな美術教育を受けた技術力のため、カサットのほうがモリゾより力量があると見る人もいました。
モリゾに比べ、カサットの作品は主題性が強く、筆づかいもモリゾほど自由闊達ではなく、的確に人物を表現しています。
母子像などを比べると、モリゾの作品はフランス人らしい感受性豊かな叙情性が漂うのに対し、カサットの作品はアメリカ人らしい素直で温かい愛情に満ちています。
ただし、2人に共通していることとして、甘ったるいセンチメンタリズムといった類いのものはないことです。
プチ・ブルジョワ的な俗っぽさが、その性格と同じで2人の作品には皆無でした。
芸術家のステレオ・タイプであるボヘミアン的な雰囲気も皆無の2人でした。
同じような社会的階層出身だった2人は親しく交流し、美術界のことを話題に会話を楽しみ、連れ立って展覧会にも出かけました。
しかし、金利生活者のウジェーヌ・マネ夫人として画材代を稼ぐ必要がなかったモリゾに対し、カサットはパリに移住した父親から、生活の面倒は見ても、画材などの制作費用は自分の絵の売り上げから賄うことを要求されていました。
このような彼女の経済的理由もあり、印象派のグループ展に出品することはカサットにとって大事なことでした。
彼女の場合は、作品を売らなくては制作活動がままならなかったのでした。
37歳のとき、画商デュラン=リュエルが初めて彼女の作品を購入しました。
その一方で、翌年、最愛の姉リディアの病状が悪化し始めると、カサットは制作などできない状況に陥ってしまいました。
そして、その年の1月にリディアが亡くなり、母親まで体調が優れなくなってしまうと、ますます制作できる余裕などなくなってしまいました。
結局彼女は2年間ほど絵筆とパレットから遠ざかって過ごすことに…。
メアリー・カサット《お茶》1880年頃
42歳まで、カサットは印象派の積極的なメンバーでした。
印象派から離れた後も、ドガやベルト・モリゾとはずっと友人のままでした。
この年、デュラン・リュエルによるニューヨークでの最初の印象派展にも出品をし、49歳のときにはパリの同画廊で、そしてその2年後にはニューヨークの同画廊で個展を開き、成功を収めています。
しかし、アメリカでは55歳のときに兄アレクサンダーがペンシルべニア鉄道会社の社長に就任したため、画家メアリー・カサットとしてよりも、財界の大物の妹という扱いを受けてしまいがちでした。
男性優位主義が当たり前の時代のアメリカだったため、偉大な兄の陰に隠れてしまいました。
浮世絵に衝撃を受ける
メアリー・カサット《試着》1890-1891年
46歳のとき、ベルト・モリゾと一緒に日本展へ行きました。
官立美術学校で日本の版画展が開かれた際、1860年代から日本美術に傾倒していたドガは浮世絵が大衆的になりすぎたことを嘆き、彼らしく「古くさい」と毒づきましたが、カサットは深く感銘し刺激を受けました。
そこで見た喜多川歌麿や歌川豊国の絵に衝撃を受けます。
そしてそれ以降、 カサットの油彩画や版画には抑えられた色数や色調、平面的な処理や輪郭線、そして縦長の構図などに浮世絵の影響が表れるようになりました。
47歳のとき、ドライポイントやアクアチンとで描かれた、高度なオリジナル・カラーの連作版画を発表しました。
そしてカサットは、版画を裕福でないアメリカ人にも広めたいと思っていました。
なぜ なら、この頃の平均的なアメリカ人は、フランス人のように、たとえ油彩画に手が出なかったとしても自分の経済力に応じたやり方で美術を生活に取り入れ生活を美化して楽しむということを知らなかったためです。
カサットは、美術や文化の裾野を母国でも広げようとしました。
しかし、すでにアメリカに進出していた画商デュラン=リュエルにより、採算的な理由から版画ではなくパステル画に戻されてしまいます。
メアリー・カサット《舟遊び》1893-1894年
美術コレクターのアドバイザーに
エドガー・ドガ《バレエのリハーサル》1876年頃
現在、アメリカの美術館には、すばらしい印象派のコレクションがありますが、その礎を築くことができたのは、カサットのおかげでもありました。
カサット自身がまず画家だったこと、そしてその社会的地位の高さから富裕層とコネクションがあったことから、彼女を頼って絵を購入する人々が表れました。
その中の1人、16歳のルイジーヌは、カサット勧めで上の絵を購入しました。
そして彼女が、アメリカ人として初めて印象派の絵を購入した人物となりました。
ルイジーヌは後に砂糖王として巨万の富を築くことになるヘンリー・オズボーン・ハヴマイヤーと結婚しました。
ハヴマイヤー夫婦はカサットにアドバイスをもらいながら印象派の絵画を買い集め、アメリカ最大の美術コレクションを築くことになり、現在そのコレクションは、メトロポリタン美術館に寄贈されています。
現在、アメリカの美術館が見事な印象派コレクションを誇ることができるのは、その基礎を築くことに貢献したカサットの尽力と情熱の賜物といっても過言ではありません。
病
母国よりもフランスを好んだカサットは、60歳のときにはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与されました。
その10年後には、母校のペンシルベニア美術アカデミーから名誉金メダルを贈られました。
62歳のとき、ペンシルバニア鉄道の社長だった兄アレクサンダーが亡くなり、68歳まで絵を描くことを再びやめてしまいます。
64歳のときを最後に、カサットは二度と故郷に戻ることはありませんでした。
66歳のとき、エジプトへ旅行し、古代の絵の美しさに感動します。
67歳のとき、糖尿病、リウマチ、神経痛、白内障と診断されます。
70歳のとき、目がほとんど見えなくなってしまったため、画家としての制作活動ができなくなってしまいました。
その後、白内障の手術を受け続けるものの芳しい結果に至らず、晩年はほぼ盲目状態で過ごしました。
画家としての活動が望めなくなった後も、独立心と義務感が強い性格だったカサットは、アメリカでの女性参政権の理想に向けて活動し、71歳のときには、その運動を支援する(資金集めの)展覧会に作品を18点出品しました。
アメリカの女性画家にとってパイオニア的存在となったカサットでしたが、彼女は決して印象派以降の芸術運動を評価していたわけではありません。
ドガと意見が同じだったカサットは、偉大な画家はモダン(現代)であると同時にクラシック(古典)でなければならないと考えていたからです。
そして、画家として大成するには大変な努力と労力が必要と考えていた彼女は、芸術的性質イコール芸術的才能と勘違いをするアメリカ人のことを嘆いていました。
この「感性至上主義」は現代に至るまでアメリカだけでなく日本でも浸透しています。
73歳のとき、ドガが亡くなり、葬儀にも参列しました。
ドガはかなり気難しい性格で、晩年はほとんどの友人が彼から離れていきましたが、カサットは、適度に距離を置きつつも、連絡を取り続けていました。
そして、82歳で亡くなりました。
まとめ
・カサットは、印象派をアメリカに広げた画家