こんにちは!
今回は、サロンがどんどん保守化した結果どうなっていったのかを解説します。
早速見ていきましょう!
サロンの保守化と前衛画家のフラストレーション
どんどん保守化
フランツ・ヴィンターハルター《ニューヴェルケルク伯爵の肖像》1852年
ニューヴェルケルク伯爵の権力は、1863年11月13日の帝国勅令の発布で最強のものとなりました。
美術大臣の下に新たに設けられた美術総監の役職に就きました。
その結果、ルーヴル美術館も美術アカデミーも官立美術学校もサロンもすべて美術総監の指揮下に入ることになりました。
官立美術学校の校長は美術大臣によって任命され、その校長が教授陣を任命することになりました。
美術総監の意向が大きく作用するようになりました。
ジャン=フランソワ・ミレー《落穂拾い》1857年
また、1863年から再び毎年開催されることになったサロンで、世間で認知されつつあったバルビゾン派(上のような作品)など、新古典主義の規範にそぐわない出品作に寛容な態度を示し始めた美術アカデミーに対して影響力を示そうとしました。
1864年からは、絵画部門の審査委員の4分の3が画家たちによる選挙で選ばれることになりました。
選挙権を持っていたのはアカデミー会員と過去のサロンでの受賞者とレジオン・ドヌール勲章を授与された画家だったため、結局は選挙で審査委員に選ばれるのも多くは保守的なアカデミー会員でした。
そして、4分の1を美術行政側が任命することにより、フランス古典主義の伝統とサロンの保守性をより確かなものにしたのと同時に、美術アカデミーの権限を制限しようとしました。
コロコロ変わる入選基準に翻弄される
それ以降もサロンは改編を続け、1867年には選挙による審査委員が3分の2になり、行政からの指名による審査委員が3分の1になりました。
そのため、この年の審査委員会は保守化し、前衛的な画家には厳しいサロンになりました。
さらに、ニューヴェルケルク伯爵は「落選者展」開催への要望も拒否しました。
その結果、 印象派の間でサロンとは別に自分たちの展覧会を開く構想が浮かび始めました。
しかし1868年からは、無審査だった1848年以外のサロンの入選経験がある画家なら誰でも投票できるようになったため、この年のサロンには印象派などの前衛的な画家の多くが入選しました。
こうした審査委員の選び方によってサロンの入選基準が一定しないことから、新古典主義に則さない前衛的な画家たちが入選と落選を繰り返し、翻弄されるようになりました。
ジャン=バティスト・カミーユ・コロー《モルトフォンテーヌの思い出》1864年
コローやドービニーなどバルビゾン派の画家が審査委員に選ばれると、前衛的な若い画家たちに対して寛容な審査となりました。
この時代の若い画家たちがおかれていた状況は現代とは大きく違っていました。
莫大な費用のかかる個展が一般的でない時代で、サロンに入選しなければ世に出ることもかなわないため、サロンで評価を得ることが、若い画家たちにとっては死活問題であり、名声を得て成功するためには必須のことでした。
当時のサロンは入場者数が数十万人におよび、新聞や雑誌がくまなくサロンについて記事を掲載する一大イベントでした。