こんにちは!
今回は、聖ルカ・アカデミーの問題点についてです。
早速見ていきましょう!
聖ルカ・アカデミーの問題点
縁故重視で排他的
ダフィット・リッケール3世《画家のアトリエ》1638年
先発の同業者組合、聖ルカ・アカデミーの実情を知らなければ、後発の王立絵画・彫刻アカデミーの革命性は理解できません。
同業者組合に存在した問題点とは何だったのでしょうか。
同業者組合では、作品販売における競合を調整し、品質の保持や互助活動も管理していました。
組合の親方となって独り立ちするためには、まず弟子として親方の下で職人修行をし、親方資格を得るための作品を提出し、それが認められて初めて独立することができました。
現代と違い、かつてはフランスだけでなく、ヨーロッパのどの街でも同業者組合があれば、その街の組合に加入していないとその場所では仕事ができませんでした。
そして日本の年季奉公とは違い、弟子が親方に修業代や、住み込みの場合は食費等を支払わなければなりませんでした。
いわば、職業訓練校のようなものでした。
その結果、他人ではなく家族や親族内で親方・弟子関係を結ぶことが多く、家業のようなものになりました。
なので同業者組合は当然ながら仲間意識も強く、よそ者に対して排他的になることは容易に想像がつきます。
実際、このパリの同業者組合は加入者の数を制限しただけでなく、パリ市民や親方の子弟には組合加入料を安く設定し、反対に地方出身者や縁故のない者には加入料を高く設定していました。
王立絵画・彫刻アカデミー創設以前にパリで、画家が組合に属さずに仕事をしたいのであれば、王族の宮廷画家になるか、または定期市で販売するか、もしくは僧院やパリ市の城壁の外などパリ警察権の外に住んで仕事をするしかありませんでした。
そのため、1674年に城壁外区からパリの市街区域に入れられるまでは郊外と見なされたサン・ジェルマン・デ・プレに組合員ではない画家たちが存在しました。
このような縁故重視の内情は、結果として作品の質の低下を招くことになりました。
宮廷画家としてのプライドと実際の身分差
ディエゴ・ベラスケス《ラス・メニーナス(女官たち)》1656年
一 方、「国王付きの画家」などの宮廷画家も縁故による世襲化の結果、品質の低下へとつながっていきました。
17世紀のフランスは、当然のことながら階級社会ででした。
「第三身分」である平民の階層は、学者すなわち知識人が頂点をなし、その下に財務官職保持者、そして医者や薬剤師などの専門職がきて、一番下の商人までが現代でいうホワイト・カラーを構成していました。
その下にブルー・カラーがきますが、農場経営者がこのグループでは一番上の階層に属し、その下に画家や彫刻家が属する職人階級がきて、そして最下層を労働者が構成していました。
いわゆるプルー・カラーは、生活のために手を用いて仕事をする人々と考えられたため、職人階級に属する画家や彫刻家はエリートとはかけ離れた存在でした。
ブルジョワの人間が画家や彫刻家になることは、社会的に不名誉なことと見なされたくらいに階級意識が強い時代でした。
しかしいくら職人階級に属しているとはいえ、王族のお抱え宮廷画家になった者は、職人風情丸出しで王族に接したり、宮廷に出入りするわけにはいきません。
その結果、彼らは服装や物腰、そして言葉なども職人階級のものではなくなり、そして外見だけでなく意識も宮廷人化していきました。
そのため、自意識と社会における自分たちの現実的な身分との落差に対する葛藤が芽生えました。
同業者組合に属さなくてもよかった宮廷画家たちでしたが、この同業者組合の存在のおかげで職人という階級的な枠から逃れられなかったために、自己喪失に陥りました。
その結果、 職人芸と見なされていた自分の職業が、何としても高尚な「自由学芸」のひとつとして認識されるよう運動を開始しました。