こんにちは!
今回は、印象派に決定的な影響を与えた発明品「チューブ入り絵具」についてです。
早速見ていきましょう!
チューブ入り絵具ができるまで
元々は調合して作っていた
今のわたしたちは、あまりにもチューブ入り絵具に見慣れているので、絵は戸外で難なく完成させられると錯覚しがちです。
でもそれが可能になったのは、ようやく19世紀になってからのことでした。
ニクラウス・マヌエル《聖母を描く聖ルカ》1515年
上の絵では画家自身も聖人との設定なので、光輪があります。
右腕は安定させるために棒状の用具(腕鎮の前身)で支え、四角いパレットの穴に、左手の親指を入れて持っています。
パレット、イーゼル、筆などは現代のものとあまり変わりませんが、絵具は壺入りです。
弟子が部屋の隅で絵具を練り、パレットに並べています。
工房(通常、親方と複数の徒弟)内の奥で、弟子が一生懸命仕事中なのがわかります。
顔科(鉱物や貝、昆虫を乾燥させて砕いたもの)にメディウム(様々な媒剤のこと)を混ぜて練りあげ、絵具を作っています。
かつてはこのように画家がいちいち弟子に、「こんな色の絵具を、ここにこのくらい使いたい」などと指示をして調合させていました。
人工染料と違って乾きやすいため、使うだけの分量をその場でそのつど用意させるしかありませんでした。
微妙な色合いは個々の工房の、いわば企業秘密でした。
画家自身で作ることもありました。
ティツィアーノのあの独特の赤は鮮血を混ぜているからだ、などと噂が飛びかうことも。
なので画家は、描くことだけに集中するというわけにはいかず、外で描くことなど到底できませんでした。
外ではスケッチだけして、屋内へもどり、記憶で色彩を考え絵具を練らせ、それからやっと描くことができました。
アトリエの窓は、自然光を描くどころか、自然光の変化を受けないよう、北向きでした。
絵を諦め、起業する人々が登場
何世紀もそんな状態が続きましたが、1700年代の終わり頃、画家になれなかった人たちや、画家として生活していけない人たちが、創作を断念して絵具製造業を始めました。
自分たちであらかじめ練って作った、様々な色の絵具を販売し始め、既製絵具が誕生しました。
しかし、初期の絵具の容器は、今のようなチューブ形ではありませんでした。
ピーテル・ブリューゲル《ベツレヘムの人口調査》1566年
ブリューゲル《ベツレヘムの人口調査》の絵の中にその「容器」が登場しています。
左下で父親が豚を殺し、母親がその血を、ソーセージ用にか、フライパンに受けています。
そばで子どもたちが見ています。
そのひとりがとても大きな風船を膨らませていますが、これはなんと豚の膀胱です。
豚の膀胱は、子供が大好きな玩具でした。
サッカーボールのように蹴ったり、中に小石を入れてカラカラ鳴らしたり、浮き袋代わりにして泳いだりと、さまざまな遊びを工夫できたからです。
さぞ昔の話かと思いきや、この絵から250年近くたった18世紀後半の子供も、豚の膀胱で遊ぶのが大好きだったとか…。
この丈夫な豚の膀胱皮は、他にも用途がたくさんありました。
マリー・アントワネットのヴァレンヌ逃亡ではトイレとして使われ、長らくシガー・ラベルのない、大きさの不ぞろいな50本1束の安物葉巻を束ねるにも用いられました。
そして絵具容器としても活躍しました。
工房で弟子が多めに作って余った場合、一時的保管具として古くから使われていました。
陶製の容器も使われていましたが、膀胱袋は特に高価な原料を入れていたようです。
経験上、使い勝手の良さを知っていた製造業者は、 膀胱袋入りを売り出したのでしょう。
金属製チューブの出たあとですら、まだ販売され続けたほどでした。
チューブ入り絵具の誕生
1828年、金属製絵具チューブが初めてできました。
真鍮製で、注射器状になっており、使い切るたび店へ持って行って新たに詰め直してもらう方式で、かなり不便でした。
しかし、油絵具は固まりやすいため、内部を洗うのが大変でした。
どうにかして安価な使い捨てチューブができないものかと研究が重ねられ、ついに1841年、今と同じ、押し出し式の錫製チューブが完成しました。
これで、心置きなく戸外制作できるかというと、そうではありませんでした。
中の絵具を乾燥させないための、きちんと締まるネジ式キャップがありませんでした。
これは翌1842年に発明されました。
同時期に絵具箱やイーゼルも改良され、軽くハンディになり、ようやく画家は室内ばかりだけでなく、戸外でも制作できるようになりました。
それまでにずいぶん時間がかかりました。
ただし、戸外で描けば印象派、というわけではもちろんありません。
印象派への橋渡しとされるコローなども外で制作しましたが、作品を見ればわかるとおり、必ずしも現実の風景を再現しようとはしていません。
コロー独自の銀灰色の薄もやがかった、ありそうでありえない叙情的世界が広がり、彼の求めるロマンがほんものの外光の下にはなかったことが実感できます。
戸外で制作する画家の姿ですが、当時は周囲の目にも新鮮だったに違いありません。
軽量の画材を持ち歩き、自然に溶け込んでを描くのは、最先端をゆく芸術行為といったところでしょうか。
見物人にとりまかれ、ちょっと得意な「日曜画家」もいたはずです。
戸外制作へ
ウィンスロー・ホーマー《ホワイトマウンテンでスケッチする芸術家》1868年
アメリカ人ホーマーの作品を見ると、画家がどのように戸外制作をしていたのかがよくわかります。
この「スケッチ用日傘」は画家のお肌を守るためではなく、画布に射す光線を調整するためのものです。
日傘と一体化したイーゼルまで売られていました。
エドゥアール・マネ《水上アトリエで制作するモネ》1874年
生涯、印象主義を貫き、水面に照り映える陽の光に魅せられたモネは、こんなふうにアトリエ用のボートを所有し、間近に見る光の反射や川から眺めるセーヌ河畔のさまざまな相貌を描きました。
絵を見ると、キャンバスが小さいのがわかります。
持ち歩くので当然といえば当然です。
刻一刻と変容するや外光をとどめようとすれば、号数はおのずと制限されてしまいます。
クロード・モネ《イーゼルに向かうブランシュ・オシュデと読書するスザンヌ・オシュデ》1887年
教会や王侯貴族がパトロンの時代は、礼拝堂や王宮や大邸宅に飾るために知的な構成の巨大画面が求められましたが、王政終焉とともに購買層たる全持ちも小粒になっても小型化し、主題が変わっていく、というより主題はなくなり、見たままを描くのですから構成もさして必要なくなりました。
ジョン・シンガー・サージェント《木の下に腰掛けて描くモネ》1885年
さらに素早いタッチで仕上げるとなれば量産可能です。
フランス印象派の戸外制作には、鉄道の発達でパリから気軽に郊外に出掛けられるようになったことも大きいです。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《アルジャントゥイユの自宅の庭で描くモネ》1873年
ルノワールは、工房でもないのに6000点も描いたといわれます。(そのため、良い作品出来の悪い作品が入り混じっています)
オランダとフランス
印象派への需要を考えるとき、思い出されるのは海外貿易で繁栄を誇った17世紀オランダです。
もともと「オランダ人は皆、生まれついての画家」と言われるほどの絵画好きで、レンブラント、ボス、フェルメールなど数多の大画家を輩出していますが、特にこの黄金期には、市民層が美術収集に熱中したことで知られます。
それももっぱら自分たちの時代を映す風俗画(市井の日常生活を描いたもの)をです。
当時、人口20万のアムステルダムに、700人もの画家がいました。
おまけにあるていど棲み分けもされていたらしく、終生、帆船だけ、花だけ、冬景色の中でもスケート・シーンだけしか描かない画家などが多く存在しました。
存在できた、というところに社会の豊かさがうかがえます。
200年後のフランスも、産業革命によるブルジョワ階級の台頭、画家の増加、絵の小型化と、明らかな共通項が見られます。
またどちらも、聖書や神話や歴史には関心をはらわず、自分たちの生きている「今」の絵、ありふれた身辺スケッチを求めました。
オランダで帆船が山ほど描かれたのは、それこそが豊かさをもたらす「時代のアイコン」だったからです。
フランスで都市生活や近郊の田舎が描かれたのは、近代社会を形成した自負ゆえであり、田舎はその都市生活のストレスを癒す場だったからです。
両者の異なる点として、オランダにおける絵画市場はロシアが購買してくれたとはいえ小さすぎて、チューリップ・バブルのように崩壊してしまいました。
一方フランスの場合、初期にはアメリカという成金国がバックにつき、その後は国際美術市場の成熟のおかげで、長く持ちこたえています。
もうひとつの違いは、画家の意識です。
まだ半ば職人気質であったオランダに比べ、近代の芸術家たる画家は誰もが高いブライドを持つようになりました。
中でも印象派は、これまでにない描写法によって全く新しい地平を切り開くべく理論武装し、ゴッホを究極として、芸術に生涯を賭す覚悟なわけです。
彼らはまぎれもなく当時の風俗を描きましたが、かといって「風俗画家」と呼ばれることはとても嫌いました。
アカデミックのヒエラルキーにおいて、風俗画は「歴史画(宗教、神話を含む)」より格下と見做されていました。
ちなみにアカデミーによる認定は、「歴史画」「風俗画」「肖像画」「静物画」 「風景画」の順です。(風俗画と肖像画が逆の場合も)