こんにちは!
今回は異色の画家、ロートレックについてまとめました!
なんとゴッホの弟のテオ(画商です)も、早くからロートレックの才能を見出していました!
テオは画商として腕利きですね〜
早速見ていきましょう!
目次
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901年)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《鏡の前の自画像》1882年
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックはフランスの画家です。
父親はフランスの超超名門貴族、ロートレック家でした。
母親も貴族で、いとこ同士の結婚でした。
血族結婚は遺伝が強く出る傾向にあり、そのため生まれた子供は病弱になります。
ロートレックも生まれつき体が弱かったこともあり、その生涯は36年という短いものでした。
小さな宝石と呼ばれていた
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ロートレック伯爵夫人》1887年
ロートレックは幼い頃、「小さな宝石」と呼ばれ、家中から可愛がられて育ちました。
父親は長男のロートレックに期待していました。
母親とは生涯ずっととても仲が良く、とても愛されていました。
上の絵は母親を描いています。
足の怪我から成長が止まる
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン・ルージュにて》1892-1895年
14歳で椅子から落ちて左足を骨折、15歳で散歩の途中で沢に落ちて右足を骨折します。
以降、足の成長が止まってしまいました。
怪我だけでなく、近親婚による骨形成不全症など遺伝子疾患も原因だったよう。
その後も胴体だけは通常通り成長したため、最終的に身長は152cmまで伸びました。
この出来事から、父親から疎まれるようになります。
上の絵画の奥の方で歩いているシルクハットを被った男性の隣にいるのがロートレックです。
絵の先生は耳が聞こえない
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《アトリエのプランスト》1881-1882年
幼い頃から絵を描くことが好きだったロートレックは、父の友人の画家ルネ・プランストに絵の描き方を習いました。
彼は生まれつき耳が聞こえないため、しゃべることはできませんでした。
その後、パリへ出たロートレックは歴史画家フェルナン・コルモンのアトリエに入りました。
そしてアトリエ仲間と夜の街へ遊びに行くようになります。
社交的だったロートレックは、友人を招いて料理をふるまうことが好きでした。
ロートレックが考えたレシピは200にも及び、料理の腕前もなかなかだったといわれています。
ドガを尊敬しすぎるあまり…
エドガー・ドガ《ピアノに向かうディオー嬢》1869-1872年
憧れ、尊敬していたドガの真似をして、マリーにモデルを頼み、同じように彼女に絵をプレゼントしました。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ピアノを弾くマリー・ディオー嬢》1890年
この絵を「ドガの絵の横に並べてほしい」とマリーに贈ったことを聞いたドガは激怒します…。
尊敬していたドガに拒絶され、ロートレックは傷つきました。
とはいえ、後のドガの言葉「我々のようなベテランの画家が生活の全てをかけて挑戦しているのに、1人の若者がこれだけ描いてしまうとは驚きだ」から、実際はロートレックを高く評価していたことがわかります。
ムーラン・ルージュ
現在もパリで人気の観光スポット「ムーラン・ルージュ」は、モンパルナスという歓楽街にあるキャバレーです。
ロートレックはここに通い詰め、ダンサーたちの絵を多数描きました。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン・ルージュのラ・グーリュ》1891年
この絵はムーラン・ルージュの宣伝用のポスターです。
ムーラン・ルージュの支配人が、常連だったロートレックに制作を依頼しました。
なんとびっくり縦2メートル近くあります!大きい!
ラ・グーリュというのは、足を上げて踊るフレンチ・カンカンを踊っている中央の女性、ムーラン・ルージュのトップダンサーのニックネームです。
ラ・グーリュは「大食い」という意味です。
ダンスしながら客のお酒を飲みまくったところからこの愛称がついたようです。(笑)
手前で踊っている男性は、しなやかな動きから「骨なし」と呼ばれていたヴァランタンという彼女のダンスパートナーです。
多くの画家は、「商業的なポスターは画家のする仕事じゃない」と否定的でしたが、
ロートレックは全く気にならなかったので、ポスター制作を引き受けました。大正解。
このポスターが話題となり、ロートレックは一躍有名になります。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン・ルージュに到着するラ・グーリュ》1892年
顔が…
顔がいかつい。
ロートレックの描く女性は、なぜか皆顔が可愛くありません。
なので、モデルから苦情を言われることも。(笑)
娼館が好きすぎて娼館の中にアトリエを作る
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン街のサロンにて》1894年
娼館もロートレックの行きつけでした。
ロートレック自身が、障害者として差別される立場だったこともあり、夜の世界に入りびたり、社会的地位の低いダンスホールや酒場にいる娼婦や踊り子や歌手や芸人たちに、親近感を持ち、複雑な愛情をこめて描きました。
名家に生まれながら、本来の所に居場所を見つけられないロートレックと、今いる場所から脱出したがっている女たちは、言わず語らず互いをよく理解しあっていました。
彼女たちはロートレックになら、本当の自分をさらけだしました。
絵を売る必要のないロートレックは、描きたいものを描くことができました。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン街 検診》1894年
30代になると、なんと娼館の中にアトリエを作ってしまいました。
上の絵は、娼館の雇われ娼婦が定期検診を受ける様子が描かれています。
ひとつ上の絵でも右端に、同じく性病検診を待つ女性が描かれています。
こんなシーンを描かれたい人はいないはずなのに、なぜ彼女たちは許可したのかを考えると、いかにロートレックが彼女たち側の人間だった、仲間だったことがわかります。
娼館の醜悪さや、男に身を売りながら心は女にあるレズビアンの生態、老いた娼婦の絶望が、彼の達者な絵筆で後世に残されました。
後戻りできない
若い頃どころか、小さい頃から毎日飲酒をするほどの重度のアルコール依存症でした。
飲み方も、強いお酒をラッパ飲み…アル中…。
性病も悪化し、精神状態も悪化し、入院します。
その後、母親の住むマルロメ城で過ごします。
段々と衰弱していき、最後は母親と友人に囲まれて息を引き取りました。
まとめ
・ロートレックはムーラン・ルージュのポスターを描いて一躍有名に ・10代の時の事故で足の成長が止まった ・お母さんととても仲良し