こんにちは!
今回は、セリュジエについてです。
早速見ていきましょう!
ポール・セリュジエ(1864-1927年)
ポール・セリュジエ《光沢のあるあごひげを生やした自画像》1907-1908年
ポール・セリュジエは、フランスの画家です。
陽気な性格
パリで生まれました。
父親は香水作りの会社を経営する実業家でした。
セリュジエは、パリの名門高校で哲学や古典語などを学びました。
20歳のとき、しばらく父親の友人の会社で働いた後、パリの私立の美術学校であるアカデミー・ジュリアンに入学しました。
セリュジエの陽気な性格は、教師や学生たちに愛されていました。
後にナビ派のメンバーとなる画家ドニとはこの学生時代から友人でした。
ゴーギャンとの運命的な出会い
23歳の夏をブルターニュの芸術家村、ポン=タヴァンで過ごしました。
当時ポン=タヴァンには、ベルナールとゴーギャンを中心とする画家のグループがいました。
セリュジエはゴーギャンの指導を受けました。
ポール・セリュジエ《タリスマン》1888年
パリに戻り、ゴーギャンの指導を受けて描いた上の絵画を示し、ゴーギャンから学んだアイデアについて友人たちと熱心に議論しました。
ナビ派を結成
ポール・セリュジエ《花の咲く障壁、ポン=タヴァンのル・プルデュ》1889年
24歳の夏にもポン=タヴァンに滞在し、セリュジエの泊まったル・プルデュ村の宿屋は「ポン=タヴァン派」の拠点となりました。
ボナールやドニ、アンリ=ガブリエル・イベルス、ポール・ランソンとともに「ナビ派(ヘブライ語で「預言者」)」と呼ばれる画家のグループが作られ、後にアルマン・セガンやヴュイヤール、ケル・グザヴィエ・ルーセルらが加わりました。
ポール・セリュジエ《ブルトンのレスリング》1890-1891年
26歳のとき、ゴーギャンがタヒチに移った後、グループの結束は緩み、それぞれの画家が独自の画風に変わっていきました。
ポール・セリュジエ《ライタ川の洗濯女》1892年
27歳のとき、セリュジエもポン=タヴァンへは行かず、ブルターニュのユエルゴアで過ごしました。
ポール・セリュジエ《静物:画家のアトリエ》1891年
その後パリで俳優で演出家のリュニェ=ポーの舞台美術の仕事もしました。
ポール・セリュジエ《水源と女性》1899年
教え子と結婚
ポール・セリュジエ《川の近くで読書をするマルグリット・セリュジエ》
40歳のとき、アカデミー・ランソンで教師をしていたセリュジエは、教え子で陸軍将校の娘マルグリット・ガブリエル・クロードと出会いました。
ポール・セリュジエ《川岸の少年たち》(1888-1896年頃)1906年再作成
47歳のとき、セリュジエとマルグリットは結婚しました。
56歳のとき、色彩とその調和に関する理論書「絵画のABC」を出版しました。
そして62歳で亡くなりました。
まとめ
・セリュジエは、ナビ派の創始者のひとりで、原色を使って平たい絵を描いた画家