キース・ヘリングを超解説!地下鉄の落書きから世界へ

こんにちは!

今回は、キース・ヘリングについてです。

早速見ていきましょう!

キース・ヘリング(1958-1990年)

キース・ヘリング《自画像》1986年

キース・ヘリングは、アメリカの画家です。

父親は漫画家

キース・ヘリング《無題》1981年

ペンシルベニア州レディングで、4人兄妹の長男として生まれました。

父親は、エンジニアでアマチュアの漫画家だったことから、幼少期から芸術に興味を持っていました。

キース・ヘリング《クルエラ・ド・ヴィル》1984年

また、ディズニーの漫画や絵本作家のドクター・スース、チャールズ・M・シュルツの『ピーナッツ』(スヌーピー)、アニメシリーズ『ルーニー・テューンズ』などが好きでした。

10代前半のとき、キリスト教会の中におけるヒッピー的な要素である「ジーザス・ムーブメント」に出会い影響を受け、全国へヒッチハイクの旅に出かけました。

旅では自身で制作したTシャツを売って日銭を稼いでいました。

またこのころにドラッグを試みるようになりました。

芸術の道へ

キース・ヘリング《無題》1978年

18歳のとき、2年間ピッツバーグにあるアイビー・プロフェッショナル芸術学校に通び商業藝術を学びましたが、あまり面白くなく興味をを失いました。

ロバート・ヘンライの著作『アート・スピリット』を読み影響を受け、自分自身の芸術を追求することを決心しまました。

ピッツバーグ芸術センターでメンテナンスの仕事をしながら、デビュッフェ、ポロック、マーク・トビーらの美術を研究しました。

ピエール・アレンスキーの回顧展を見て、大きなカリグラフィー作品を創作することに対して自信を持ちました。

20歳のとき、彫刻家クリストの講義で、芸術を通じて公衆を巻き込む可能性を学びました。

ニューヨークへ移り、スクール・オブ・ビジュアル・アーツに入学し、絵画を学びました。

ビデオやパフォーマンスとアートの可能性を探求するとともにビル・ベックリーから記号学も学びました。

この頃、「ダンステリア」というナイトクラブで皿洗いや給仕のアルバイトをしていました。

また、ウィリアム・S・バロウズの著作物から多大な影響を受け、イメージの相互参照や相互接続を行う実験からインスピレーションを受けました。

地下鉄に落書き

キース・ヘリング《無題》1982年

22歳のとき、ニューヨークの地下鉄構内の、黒い紙が貼られた使用されていない広告板にチョークで描く「サブウェイ・ドローイング」を開始し、一般の人から注目を集めるようになりました。

キース・ヘリング《無題》1982年

キースは地下鉄を実験作品を制作するための「実験室」と見なしていました。

23歳のとき、ウェストベス画廊で初個展を開催しました。

また、クラブ57で個展を開催しました。

キース・ヘリング《イコンズ(ラディアント・ベイビー)》1990年

「ラディアント・ベイビー」は彼のシンボルとなりました。

また、ヘリングはタイムズ・スクエア・エキシビジョンに参加し、はじめて動物や人間の顔を描きました。

キース・ヘリング《無題》1980年

コピー機で複写したテキストをカットアップして『ニューヨーク・ポスト』風の挑発的なコラージュを作ったことで話題になりました。

キース・ヘリング《無題》1982年

24歳のとき、ソーホーの大手画廊トニー・シャフラジでデビューしました。

その後7年間で、世界中の都市で50以上の公共作品を制作しました。

ドイツの国際ドクメンタに参加しました。

グラフィティ・アーティストのフーツラ、ケニー・シャーフ、マドンナ、バスキアといった同世代の新興アーティストたちを友好関係を築きました。

キース・ヘリング《イコンズ(バットマン)》1990年

ヘリングはよく運動性や活力、ハッピーな状態を強調表現するために力強い大胆な線を利用して絵を描きました。

初来日

キース・ヘリング《キース・ヘリング83-キース・ヘリング展》1983年

25歳のとき、日本に初めて訪れ、屏風や掛け軸といった日本特有の家具や道具に墨を用いたドローイングを発表しました。

ホイットニー・ビエンナーレに出展しました。

キース・ヘリング《無題》1984年

26歳のとき、ヴェネチア・ビエンナーレに出展しました。

世界各国で壁画制作を開始

オーストラリア、ブラジル、フランス、アメリカの美術館などで壁画を制作しました。

また、このころから政治と連動した芸術制作を始めるようになりました。

パラダイス・ガラージで個展を開きました。

キース・ヘリング《無題(ピープル)》1985年

27歳のとき、パリ・ビエンナーレに出展しました。

現代美術老舗画廊レオ・キャステリで個展を開きました。

南アフリカを解放を啓発するポスターを制作しています。

キース・ヘリング《無題(ボディ・ペインティング)》1984年

ヘリングはアンディ・ウォーホルを通じて出会った歌手で女優のグレイス・ジョーンズとコラボし、パラダイス・ガレージでツーマン・ライブパフォーマンスを行いました。

また、何度かヘリングはジョーンズのボディ・ペインティングも行っています。

他にも、ファッション・デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドやマルコム・マクラーレンらと1983年と1984年のウィッチズ・コレクションでコラボしており、その服をマドンナがよく着用していたことが知られています。

28歳のとき、ヘリングはアムステルダム市立美術館で最初の美術館での個展を開催し、壁画も制作しました。

 

ドイツのチェックポイント・チャーリー博物館からの依頼でベルリンの壁に絵を描きました。

壁画の長さは、なんと300メートルもあり、黄色を背景にして赤と黒で連結された人物造形の絵が描かれました。

その色はドイツの国旗や東西ドイツ間の統一を象徴を表すものでした。

キース・ヘリング《アンディ・マウス》1986年

最も尊敬していたポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルとも親交を持つようになり、様々なウォーホルをテーマにした作品を制作しました。

上の絵は、幼い頃から好きだったミッキーと、ウォーホルとを融合させた偶像です。ウォーホルのサイン入りです。

キース・ヘリング《アンディ・マウス》1986年

ウォーホルとの友好関係はヘリングがアーティストとして成功する決定的な要素となりました。

誰もがアートに触れられるように

 

ソーホーにヘリングがデザインした店「ポップ・ショップ」がオープンしました。

ここでは、リーズナブルな価格で購入可能なキースの作品が販売されました。

キース・ヘリング《イコンズ(スリーアイド)》1990年

この頃、反アパルトヘイト、エイズの啓発、コカインの蔓延といった社会的・政治的テーマが作品により強く反映されるようになりました。

アブソルート 、コカ・コーラ、ラッキー・ストライクといった商品から影響を受けたポップ・アート作品もいくつか制作しています。

キース・ヘリング《無題》1987年

29歳のとき、アントワープやヘルシンキをはじめ世界中で個展を開催しました。

ニューヨーク、「アート・アゲインスト・エイズ」に出品しました。

多摩で子供たちと壁画制作

キース・ヘリング《マイ・タウン》1987年

東京多摩市のパルテノン多摩で約500人の子供たちと壁画を制作しました。

マドンナらが参加したクリスマス音楽アルバム『クリスマス・エイドI』のカバーワークを手がけました。

 

30歳のとき、東京青山に「ポップショップ・トーキョー」をオープンしました。

上の扇子は、ポップショップ・トーキョーのために作られた扇子です。

シャトー・ムートン・ロートシルトのワインラベルのデザインを手がけました。

キース・ヘリング《ジャン=ミシェル・バスキアの王冠の山》1988年

30歳のとき、友人のバスキアが、オーバードーズで亡くなり、彼に敬意を表した上の作品を制作しました。

エイズ

キース・ヘリング《ナショナル・カミングアウト・デーUSA》1899年

ヘリングはゲイであることをカミングアウトしており、安全な性行為を強く主張していました。

しかしながら、エイズと診断されてしまいます…。

24歳から30歳までの間で、100以上個展やグループ展に参加し、また数多くの慈善団体、病院、デイケアセンター、孤児院のために50以上公共芸術作品を制作しました。

キース・ヘリング《無視=恐怖》1989年

晩年、自身の病気、エイズ問題に関して話し、予防啓発のために自身のイメージを大いに活用しました。

キース・ヘリング《ポップショップⅢ》1989年

31歳のとき、「見ざる、聞かざる、言わざる」というテーマを中心に、「多くの動機をともなう反抗」というキャッチを通じてAIDSのような社会的問題の回避を批判し始めました。

キース・ヘリング《ワンス・アポン・ア・タイム》1989年

レズビアン・ゲイ・コミュニティ・サービス・センターの招待を受け、上の作品を建物の2階の壁に描きました。

キース・ヘリング《ピサの壁画》1989年

イタリアのピサにあるサンタントーニオ教会修道院の後壁に、彼の人生最後の公共作品となった壁画を描きました。

キース・ヘリング財団

キース・ヘリング《イコンズ(ドッグ)》1990年

AIDS団体と子どもの教育プログラムへの資金提供を目的とした「キース・ヘリング財団」を設立しました。

財団の目的は彼の遺産、工芸、芸術を引き継ぐことだけでなく、恵まれない青少年を教育し、またHIVやAIDSに関して個々に知らせることを目標とした非営利団体に対して、助成金と資金を提供をすることでもありました。

キース・ヘリング《レトロスペクト》1989年

財団は、展覧会、出版物、イメージ・ライセンス事業に積極的に参加し、一般層に対するヘリングの認知拡大を試みました。

キース・ヘリング《オルターピース(キリストの生涯)》1990年

31歳のとき、へリングはAIDSに関連した合併症で亡くなりました。

上の作品は、亡くなる数週間前に完成した最後の作品です。

キース・ヘリング《イコンズ(エンジェル)》1990年

マドンナは1990年に開催したブロンド・アンビジョン・ツアーのニューヨーク公演でヘリングの生涯を讃え、ヘリングの追悼コンサートで得た収益をアルファ・ヘルスやamfARなどのAIDS慈善団体に寄付しました。

その様子は1991年のマドンナのドキュメンタリー映画『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』に記録されています。

まとめ

キース・ヘリングは、ストリートアートやグラフィティの先駆けとなったアーティスト