こんにちは!
今回は、10歳以上も年を上にサバ読んでいた画家ティツィアーノについてです!
早速見ていきましょう!
目次
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488-1576年)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《自画像》1562年頃
ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、盛期ルネサンスのイタリアの画家です。
アルプス山のふもとにある村ピエーヴェ・ディ・カドーレで生まれ、4人兄弟でした。
父親はピエーヴェ・ディ・カドーレ城の管理者で、地方鉱山の責任者で、有名な評議員で軍人でもありました。
祖父は公証人で、この地方では名家の家系でした。
画家修行
10代前半で、弟のフランチェスコ(兄との説もあり)と一緒にヴェネチアの叔父のところへ行き、一家の友人でモザイク職人の、画家セバスチアーノ・ツッカートに弟子入りします。
彼がティツィアーノ兄弟のために、評判の高いジェンティーレ・ベリーニの元で修行できるよう手配しています。
その後、その弟のジョヴァンニ・ベリーニに弟子入りします。
そこで、兄弟子のジョルジョーネに出会います。
彼らは、切磋琢磨して腕を磨きました。
ティツィアーノの弟フランチェスコも、後にヴェネツィアで画家として成功しています。
ジョルジョーネと共同制作
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《田園の奏楽》1509年
ティツィアーノはジョルジョーネの助手を務めていましたが、この頃にはすでにティツィアーノの評価も高く、師弟関係などではなく、共同で絵画制作をしていました。
そのため、この時期の2人の絵を判別するのは現在でも非常に難しく、ジョルジョーネ作だと考えられていた作品がティツィアーノ作だったり、その逆だったりすることもしばしばあります。
上の作品も、ジョルジョーネ作だとずっと考えられていた作品です。
もしくは、ジョルジョーネの死後、ティツィアーノが大部分を描き、完成させたと考えられてます。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《聖愛と俗愛》1515年
ビックサイズの祭壇画
師匠のベリーニも亡くなり、27歳で彼の後を継いで、ヴェネチア共和国の御用達画家となります。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《聖母被昇天》1516-1518年
サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂からの依頼で上の絵を描きました。
これまでのイタリア絵画で見たことがないくらいのビックサイズで、これまた見たことがないくらい色鮮やかな作品でした。
この赤が、あまりにも色鮮やかだったので「絵具に人の生き血を混ぜている」なんてウワサされるほどでした。
当初、発注した教会は、あまりにも色鮮やかすぎて、かなりビックリしてしまったそうですが、ヴェネツィアの人々からは大評判でした。
ラファエロの代わりに
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《バッカスとアリアドネ》1520-1523年
フェラーラ城のアルフォンソ1世から、自分の書斎を飾る用の神話の連作の制作依頼がきます。
元々はラファエロに発注していましたが、若くして急死してしまったため、ティツィアーノのところにこの仕事がまわってきました。
31歳のときにはすでに、レオナルドもラファエロも亡くなっていたため、ティツィアーノはイタリア最高の画家になっていました。
カール5世がパトロンに
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《カール5世の肖像》1533年
40代前半、ヨーロッパ最大の実力者であり神聖ローマ皇帝、スペイン王のカール5世の専属肖像画家になります。
41歳のとき、妻セシリアが娘の出産後に亡くなります。
セシリアはティツィアーノと同じ土地で生まれた理髪師の娘で、夫婦の仲も良かったそう。
ティツィアーノは、2人の幼児と1人の乳児を抱え、引越しをし、子供の世話などのために、妹のオルサを呼んでいます。
44歳のとき、カール5世から伯爵位とナイトの称号を授けられます。
ヴィーナスの連作
56歳のとき、教皇パウルス3世に招かれてローマへ行きます。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《ウルビーノのヴィーナス》1538年
このとき、横たわるヴィーナスをモチーフとした連作を描いていました。
上の絵は、ジョルジョーネのヴィーナスの絵を元に制作された作品です。
詳しい解説はこちら↓
フェリペ2世がパトロンに
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《フェリペ2世》1551年
61歳のとき、カール5世の息子スペイン王のフェリペ2世がパトロンになります。
ティツィアーノは、スペイン王親子二代にわたっての宮廷画家となったわけですが、ヴェネツィアから離れることはありませんでした。
そこがベラスケスとは全く違うところなのですが、ティツィアーノは宮廷画家なのに、かなり自由でした。
なぜなら、ヨーロッパ各国の王侯貴族や教会、お金持ちなどから発注も来るし、勲章などをたくさんもらっていたので、スペイン王とはいえ、媚を売る必要がなかったからです。
10歳以上サバ読み
ティツィアーノの面白エピソードして有名な話があります。
晩年、フェリペ2世に、年金や絵の支払いの催促をしていた手紙が残っています。
「生活に困窮し、体調も悪いので、早く支払いを…!」という内容でした。
最後に「95歳のあなたの僕より」と記していましたが、実際には80歳前後で、とても裕福で、健康でした。
王の同情を買うために、自分をヨボヨボの老人に見せかけようとしました。
ティツィアーノの生まれた年については、正確にはわかっていませんが、1488年だろうと考えられています。
ティツィアーノが強欲だったから、10歳年をサバ読んで多くお金をもらおうとした、というよりも、フェリペ2世に関わらず、注文者が支払いを渋ったりすることがしょっちゅうあったので、確実にお金を回収するための策でした。
ティツィアーノはよく、まだ何も考えていない段階で「もうすぐこの絵も仕上がります!前の絵の代金を入手次第、すぐ今の絵をお送りします」といって、お金を回収してから、次の絵を描き始めたそう。したたか。(笑)
変身物語
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《ダナエ》1560-1565年
フェリペ2世からの依頼で、連作『ポエジア』を制作します。
この連作は、オウィディウスの『変身物語』を題材にしています。
上の絵もその中の1枚で、神の中で1番偉いゼウスが、黄金の雨に変身して忍び込もうとしているシーンです。(なにそれ)
ミケランジェロとヴァザーリが尋ねてきて、この絵を見て「色彩や構図は素晴らしいけど、デッサンがとにかくダメ。デッサンが大事。デッサン…」と言ったとか。
この絵の詳細はこちら↓
70歳でも現役
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《エウロペの略奪》1562年
この作品も『ポエジア』の中の1枚です。
後にルーベンスが模写したり、ベラスケスが《織り女たち》の背景のタペストリーに引用しています。
70代になると、自分の工房は息子に任せていました。
弟子たちが売れる絵を何枚も複製しつつも、全部任せっきりというわけではなく、ティツィアーノも仕上げに手を入れていました。
絶筆
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《ピエタ》1575-1576年
自分の墓を飾るために描いたこの作品が絶筆です。
こでまでの華やかな色彩ではなく、独特の銀灰色で描かれています。
「ピエタ」というのは、磔で死んだイエスを抱いて泣く母マリアの絵を意味しています。
右のひざまずく老ヒエロニムスは自画像だといわれています。
亡くなる前に自分の墓所を、サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂の礼拝堂と決めていました。
そこで、埋葬してもらうお礼として、この絵を献納することを申し出ていました。
1576年、ペストが猛威をふるい、息子のオラーツィオを亡くし、その後を追うように、88歳のティツィアーノも亡くなりました。
わずかに未完成のままティツィアーノが亡くなってしまったので、弟子のパルマ・ジョヴァーネが完成させています。
絵の下の部分に「ティツィアヌス未完にて遺せし故に、恐れ多くもパルマ完成し、神に奉納せしものなり」と記されています。
まとめ
・ティツィアーノは、躍動感のある筆跡と繊細で鮮やかな色彩感覚を持った画家