こんにちは!
今回は、リチャード・ダッドについてです。
早速見ていきましょう!
目次
リチャード・ダッド(1817-1886年)
《自画像》
リチャード・ダッドは、イギリスの画家です。
優秀な画家の卵だった
リチャード・ダッド《眠るティターニア》1840-1841年
ダッドは、イギリスのケント州・チャタムで生まれました。
13歳から絵を描きはじめ、20歳でロイヤル・アカデミー美術学校に入りました。
リチャード・ダッド《パック》
その年に『眠るティターニア』と『パック』が評価されました。
旅行で頭がおかしくなる
《トルコの衣装を着たトーマス・フィリップ卿の肖像》
24歳の7月、パトロンで弁護士のサー・トーマス・フィリップと一緒に、ヨーロッパや中東を旅行して回りました。
《小アジア(トルコ)のミラースにあるキャラバンサライ》1845年
この旅行中の同年12月頃に精神に異常をきたしはじめました。
《エジプトからの脱出》1849-1850年
当初は日射病によるものと思われていましたが、「自分はエジプトの神、オシリス(冥界の神)の使者であり、同行者には悪いものが憑りついているので殺さねばならない」などの妄想が激しくなり狂暴になっていきました。
気が狂って父親を殺害
《リチャード3世は血の剣を持っており、ヘンリー6世の死体は地面に横たわっています》1853年
25歳の春、家族の勧めでケント州郊外コブハムで療養しました。
リチャード・ダッド《激情のスケッチ-憎悪》
しかし、同年8月、26歳のとき、父親のロバートと公園を散歩中に「中にいる悪魔を殺すために」ナイフで父親を殺害し、フランスへ逃亡しました。
パリで乗合馬車の客を殺そうとして逮捕されました。
精神病院で絵を描いた
リチャード・ダッド《矛盾:オベロンとティターニア》1854-1858年
精神異常と判断されたため殺人に問われず、フランスの精神病院に10ヶ月ほど収容された後、イギリスに戻されたダッドは、王立ベスレム病院(ベドラム)に収容されました。
彼は亡くなるまでの40年以上、病院に隔離されることになり、時々暴れはしましたが、おおむね絵を描いて過ごしていました。
妖精、フェアリーなどの架空の素材を精密描写した油彩画が特に有名で、代表的といわれる作品のほとんどはベドラムの中で描かれています。
クイーンの曲にもなった『お伽の樵の入神の一撃』
リチャード・ダッド《お伽の樵の入神の一撃》1855-1864年
ダッドの代表作である上の絵は、手がけてから8、9年経っても描き終えることができず、そのうち別の病院へ移されたため、未完で終わっています。
妖精の樵が固い木の実を割る場面を描いたこの絵は、54×40㎝ほどの小型画面に、多くの架空の生きものが、同じだけの精密さをもってびっしり描かれているのが特徴的です。
イギリスのロック・バンドのクイーンが、この絵画をモチーフにした同じタイトルの曲を作っています。
この世であった不運はあの世でも加えられる
リチャード・ダッド《バッカス祭の情景》1862年
右下のサテュロスが飲もうとしているグラスには、ラテン語で「人はそれぞれに不幸な運命を持っている。この世だろうと、あの世だろうと同じだ。この世であった不運は、あの世でも同じように加えられるに違いない」という詩が刻まれています。
わかりやすいように絵の裏面にも同じ詩が書いてあるそう。
リチャード・ダッド《彷徨える音楽家》1878年頃
46歳のとき、収容者過剰のためにバークシャーのクローソーンにあるブロードムーア病院へ転院し、生涯を終えるまでを過ごしました。
まとめ
・ダッドは、父親を殺害し、精神病院内で妖精画を描き続けた画家