こんにちは!
今回は、モネとサロン、そして落選と印象派展の構想についてです。
早速見ていきましょう!
サロンでの落選
前回のおさらい
モネは、サロンデビューを果たし、先輩画家マネと和解し、恋人ができ、ここまではとてもいい感じに物事が進みました。
キャンバスを埋める
クロード・モネ《庭の中の女たち》1866年頃
26歳のモネは、1866年のサロンが終わると、セーヴルやオンフルールに滞在しながら、大作《庭の中の女たち》に取りかかりました。
カミーユが再びモデル(3人とも4人分とも)を務めました。
モネは、実際に庭の中で本作を制作しました。
絵の上部に手が届かなかったため、穴を掘って、その中にキャンバスを入れて描きました。
光の状態を正確に再現するため、毎日同じ時間に仕事を始め、太陽が雲で隠れると作業を中断しました。
本作にはこんなエピソードがあります。
クールベがモネのアトリエを訪ねた際、モネが絵筆を持ったままキャンバスの前でぼんやり立っていました。
なぜ描かないのかと聞いたところ、モネは、あのせいだと言って雲を指しました。
クールベは、「影をつけるところはともかく、背景は今でも描けるじゃないか」と言いましたが、モネは従わなかったとか。
サロン落選のショック
27歳のとき、パリのヴィスコンティ街のバジールのもとへ身を寄せ、ルノワールと3人で暮らしていました。
《庭の中の女たち》をサロンに応募しました。
伝統的に人物は屋内の設定で描くところを、外光に満ちた戸外に持っていった作品でしたが、結果は落選でした。
審査員からは、絵筆の跡があらわになっている点が、不注意と未完成の証拠であると受け止められてしまいました。
当時の画家にとって、サロンに入選するかどうかは絵が売れるかどうかを決める決定的な要素でした。
そのため、サロンへの落選はモネにとって大きなショックでした。
生活に困窮したモネを助けるため、バジール(お金持ち)が本作を2500フランという大金で購入してくれました。
印象派展の構想
クロード・モネ《サン=ジェルマン=ロクセロワ教会》1867年
この1867年のサロンの審査委員会が保守化したため、後に印象派と呼ばれる画家たちはドガとモリゾ以外は落選しました。
そのため、同じく落選したルノワール、バジール、シスレー、ピサロ、セザンヌらと独自のグループ展を開催しようとしましたが、質金不足のために計画は頓挫しました。
経済的に困窮したモネは、なんとか資金を手に入れようと画策します…。
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