こんにちは!
今回は、モネのどん底貧乏時代についてです。
早速見ていきましょう!
モネと家族との確執、自殺未遂…
前回のおさらい
モネはサロンに落選し、大ショックを受け、落選した仲間たちと独自の展覧会を開きたいと考え始めました。
家族の理解を得ようとするも…
クロード・モネ《サン=タドレスのテラス》1867年
27歳のモネは、比較的裕福な人々が集まるパリのル・アーブル郊外の港町サン=タドレスの伯母の家に滞在し、上の絵を描きました。
くつろいでいるモネの家族が描かれており、空・海・庭を高い場所から見下ろした構図は、日本の浮世絵からの影響だともいわれています。
クロード・モネ《ゆりかごの中の息子ジャン・モネとカミーユ》1867年
この年の夏、パリでカミーユが長男ジャンを出産しました。
クロード・モネ《サン=タドレスのル・コトーの庭にいるアドルフ・モネ》1867年
上の絵に描かれているのはモネの父親です。
クロード・モネ《サン=タドレス、庭の女(ジャンヌ=マルグリット・ルカードル)》1867年
モネの実家はモネとカミーユの仲を認めず、彼女に会うことも拒否、もちろん援助もしてもらえず、モネは経済的に困窮しました。
モネは、友人のバジールに、「とてもいとおしく感じられる、大きくてかわいい男の子だ。でも、その母親が食べるものが何もないことを考えると、苦しくてたまらない」と書き送っています。
クロード・モネ《サン=タドレスのレガッタ》1867年
友人たちにも何度も借金をし、なんとか絵を売ろうと制作するも思うようにいかず、金銭的に行き詰まります。
自殺未遂
クロード・モネ《ボート》1868年
28歳のとき、実家の援助を得るために故郷ル・アーヴルにひとりで戻りました。
近郊のエトルタやブージヴァルなどさまざまな場所で絵を制作しました。
サロンでは、海景画1点だけが、審査員であったシャルル=フランソワ・ドービニーの推薦で入選しました。
クロード・モネ《セーヌ河岸、ベンヌクール》1868年
バジールに宛てた手紙で、依然として経済的に困窮していること、動転して自殺未遂に及んだことを伝えています。
生活がちょっと落ち着く
クロード・モネ《ルイ・ヨアヒム・ガウディベール夫人》1868年
ル・アーヴルの国際海洋博覧会絵画部門に5点を出品し、銀賞を受賞しました。
バジールへの手紙には、ル・アーヴルで得たパトロン(ブーダンのパトロンのガウディベール)の支援のおかげで、カミーユとジャンとの生活が落ち着いていることを知らせています。
クロード・モネ《かささぎ》1868-1869年
ガウディベールの助けを借りて、モネはカミーユとジャンとともにエトルタに引っ越しました。
次回はいよいよ!印象派誕生のきっかけとなったモネとルノワールのエピソードです。
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