こんにちは!
今回は、モネの第4回印象派展とカミーユのお別れ編です。
早速見ていきましょう!
第4回印象派展とカミーユの死
前回のおさらい
モネ一家、なぜか破産したパトロン一家と共同生活を送ることに…?!?!
気の進まない第4回印象派展
クロード・モネ《サン=ドニ街、1878年6月30日の祭日》1878年頃
モネ39歳のとき、第4回印象派展に29点出品しました。
ドガが中心となって開催したことからもわかるように、当初は参加を拒んでいましたが、カイユボットが所蔵者からモネの作品を借り集め、なんとかモネを説得して出品しました。
モネは、出品に同意した理由について、「気は進まなかったが、裏切り者と思われたくなかったから」と述べています。
ルノワールやシスレーは出品しませんでした。
第4回展では、初めて利益が出て、1人439フランの配当金が与えられました。
しかし経済的には依然として苦しく、妻カミーユと子供の病気が重なり、ヴェトゥイユの大家族は、食糧も暖房もない生活を強いられていました。
カミーユの死
クロード・モネ《死の床のカミーユ》1879年
この年、病気のカミーユは32歳という若さでこの世を去りました。
その際、モネは死の床のカミーユの変化していく顔を描いています。
妻に対する愛情と画家としての業(ごう)が同時に表れている作品です。
妻を失ったモネは、ピサロへの手紙で「君はほかの誰よりも僕の悲しみを分かってくれるだろう。徹底的に打ちのめされ、再び生きる気力もなく、2人の子どもを連れてどのように暮らしていけばいいのか、皆目分からない」と書いています。
カミーユの存命中から相思相愛だったといわれているモネとアリスは、以後2人でお互いの8人の子供を育て家庭を築いていきました。
しかし、当然のことながら 経済的な負担は相当なものとなりました。
寒すぎてセーヌ川が凍る
クロード・モネ《霜》1880年
40歳のとき、猛寒波によりヴェトゥイユのセーヌ川支流が氷結し、その後、激しい勢いで解氷しました。
モネはこの現象に強く興味を引かれ、氷の上にイーゼルを立てて、描く時間や角度の違いによる光の変化を絵にすることに夢中になりました。
クロード・モネ《氷塊(解氷)》1880年
それらの作品は、貧困、そして妻カミーユの死など精神的な苦境にあったモネの心の中が投影されているかのようです。
次回は、同じく貧乏だった親友ルノワールが一気に人気画家に?!
モネもルノワールに続くことはできるのでしょうか…。
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