こんにちは!
今回は、《イカロスの墜落》についてです。
早速見ていきましょう!
イカロスの墜落
伝ピーテル・ブリューゲル《イカロスの墜落》1555-1558年頃
フランドルの秋の日暮れ時が描かれています。
夕陽を照り返した滑らかな水面に、いくつもの船が浮かんでいます。
一見のどかな風景のように見えますがよく見てみると…。
何かがおかしい
荒波は描かれていませんが、軍艦のような大型船の帆は風を受けてはちきれんばかりに膨らみ、水夫が帆桁に上って帆を巻いています。
小舟は大きく傾き、かなりの強風にみまわれていることがわかります。
そんな海上に比べ、なぜか陸地はいたって穏やかで、少しの風の動きも感じさせません。
丘の斜面の木々の葉は静かで、農夫の帽子は吹き飛ぶ気配もなく、服の裾もだらりと垂れたまま揺れもしません。
前景の畑、中景を進む帆船、遠景に霞む連山・都市・港と、途方もない広さの印象は、視点をそれぞれ微妙にずらす技法のトリックによって強化されています。
遠くの風景はかなり高い位置から、船は正面から、羊飼いは少し横から、手前の農夫は近距離斜め上方から捉えられ、全体の距離感がぐんと増しています。
羊飼いは長い杖を胸に抱えて寄りかかり、脚を交差させて、ぼんやり空を見上げています。
そばにいる牧羊犬は、目は飼い主と別方向へ投げています。
どちらにせよ、両者が見ている先に何があるというわけでもなく、そのためなおさら彼らの存在感は薄いものとなっています。
画中、もっとも大きく描かれ、真っ先に目を惹くのは農夫です。
片手で馬を操り、片手に鋤を握って、一心不乱に土を掘り起こしています。
しかし、上体と足の先がばらばらなのと、進行方向が馬の歩みとも合致していないので、ちゃんと耕せるか不安になります。
赤の誘導
農夫の衣服は畑仕事にふさわしいようには見えませんが、派手な「赤」のおかげ で画面は引き締まり、ぱっと華やかになっています。
農夫の右下、岸壁で無心に魚を釣る男が、帽子の下に巻いている布の色も「赤」です。
同じ色でなければ見逃してしまいそうなほど、この釣り人の後ろ姿は目立たず、 背景にまぎれ込んでいます。
大きな「赤」から小さな「赤」へ、巧みに鑑賞者の視線を誘導することで、釣り人のそばで起こっている異変に鑑賞者は気がつきます。
ここでようやくタイトルの意味を理解するわけです。
ストーリー
この絵は、オウィディウスの『変身物語』を元にして描かれた作品です。
『変身物語』は、ギリシャ神話の登場人物が様々なものに変身してゆくエピソードを集めた物語です。
どんな物語かというと…。
名工として天才と謳われたダイダロスは、クレタ島の高い塔に息子イカロスと共に幽閉されていました。
どうにかしてここから脱出しようと、羽根を集めて中心部を紐で結び、基底部を蜜蝋で固めてつないで湾曲させて巨大な翼を完成させました。
彼はそれをイカロスに装着し、海水に濡れると羽根が重くなるので低く飛びすぎないように、太陽の熱で蝋が溶けてしまうので高すぎないように、必ず中ほど高さで飛ぶよう忠告しました。
こうして2人は空を飛び、地上では釣り竿を持つ漁師、杖を持つ羊飼い、鋤を持つ農夫が彼らを見上げ、空を飛べるのは神しかいないはずなのに、と仰天していました。
イカロスは始めこそ言いつけどおり父のすぐ後ろを飛んでいましたが、自分の力を過信し、太陽にも到達できるという傲慢さから太陽に向かって高く高く翔け上がりました。
その結果、太陽の熱での蠟が溶け、真っ逆さまに海へ墜落し溺死しました(この場所は後に彼の名にちなんで「イカリア海」と呼ばれるように)。
ダイダロスが息子を埋葬しながら非嘆にくれていると、そばでヤマウズラ(シャコ)が嘲るようにやかましくさえずりました。
実はダイダロスには、才能ある甥のタロスに嫉妬して岸壁から突き落とした過去があり、タロスは落下してゆくとき、女神アテナによってヤマウズラへと変身しました。
つまりこの鳥は今、ダイダロスの不幸を喜んで鳴いていたということです。
ヤマウズラが高い場所を飛ばないのは、突き落とされた時の恐怖の記憶からだとか…。
ダイダロスの不在
本作は珍しく、ダイダロスが描かれていません。
その代わりとでもいうように、釣り人の左後方の木の枝に、大きなヤマウズラがとまっており、この鳥がイカロスの死の現場に居合わせることで、ダイダロスの罪と罰を思い起こさせる装置となっています。
また、オリジナル作品(見つかっていないブリューゲルの真筆)では、羊飼いが見ている左手の空に、ダイダロスの姿もあったのでは?とも考えられています。
イカロスへの無関心
絵の中には、神話で語られる農夫、羊飼い、漁師が、それぞれ鋤、杖、釣り竿を持ってちゃんと登場しています。
ところがせっかく登場しているにもかかわらず、物語とは違って彼らは飛翔する父子を見上げて、神のようだと感嘆したりはしていません。
それどころか、これほどに明るい戸外の、大勢がいる場で、悲鳴をあげて落ちてくる人間に、ただのひとりも注意をはらっていません。
イカロスの神話を知ってこの絵を見るとき、真っ先に感じるのは異常さにおいて際立った光景だということです。
農夫は畑を耕すことに集中して下を向きっぱなしだし、羊飼いは上を見てはいるもののイカロスとは正反対の方向で、まさに「上の空」でした。
漁師にいたっては、すぐ近くで悲劇が起こっているのに、魚がかかったのか右腕を伸ばし、天から人が降って水しぶきをあげようと我関せず自分のことに集中しています…。
帆船にも数人いますが、彼らもまた帆を巻いたり、マストへ向かって索具をよじ上るなど、自分の仕事に集中しています。
鑑賞者である私たちも、タイトルを見なければ、あまりにもさりげなく描かれた溺れる脚に気づかなかったかもしれません。
見えていないはずがないのに見ようとせず、見えているのに見えない。
しかも墜落先は海で、大きな水音や波しぶきまで加わったはずなのに、誰も全く気にしていません。
なぜ誰もイカロスの事を見ていないのか?
画家が不遜なイカロスを笑いものにしようと思ったからという説もあります。
もしくは、人々は見ていながら、見ていなかったことにしたのかもしれません。
人は、自分が想像したり理解できる範疇を超えた出来事に遭遇すると、確かに「見た」のに、目の錯覚だと思い込み、無かったことにしてしまうのかもしれません。
それとも彼らは、あえて見ようとしなかったのでしょうか?
ことわざを描いた?
画家はこの地ネーデルラントの諺、「どんな鋤も、人の死によって手を休めることはない」を独自に解釈して描いたという説もあります。
自然の法則に従おうとしないイカロスに対し、自らに課せられた仕事に励む農夫たちを讃えたのかもしれません。
ブリューゲルの作品だと思われていたが…
本作は長らくピーテル・ブリューゲルの真筆とされてきました。
しかし、農夫の足の方向や衣装の描き方の生彩のなさ、帆船の輪郭の曖昧さ、過度な上塗り、ブリューゲルの他のキャンバス作品がテンペラなのにこれだけ油彩で描かれていること、ブリューゲルの油彩作品は全てパネルなのにこれだけキャンバスなことなど、いくつかの点で「ブリューゲルらしくない」部分があり、真贋をめぐって専門家の間で意見がわかれていました。
そして2002年、所蔵先のベルギー王立美術館は「ブリューゲル工房展」開催において、ついに「ピーテル・ブリューゲル(?)」と表記することで、別人作をほぼ認めた形になりました。
そのことから、この絵は、見つかっていないブリューゲルの真作を別の画家が真似して描いた作品ということになります。
…とはいえ、この作品こそが真作だと信じる専門家たちによると、元々パネルに油彩の作品が、キャンバスに移し替えられ、その後の2回の修復作業で損傷が拡大し過度な上塗りの原因になっており、赤外線調査によると下絵や絵具の構成はブリューゲルの他の作品と一致するため、模倣者の手で描かれたものとは考え難いとしています(子ピーテル・ブリューゲルの可能性はあるそう)。
もう1枚の絵
ピーテル・ブリューゲルの模倣者《イカロスの墜落》
同じような絵が残っていますが、こちらは技法が異なっており、父ブリューゲルまたは子ブリューゲルの絵ではないとわかっています。
ですが、この絵にダイダロスが描かれていたことから、ブリューゲルの真作には描かれていたのではないかとも考えられています。