こんにちは!
今回は、ゴッホが画家になるまでを解説します。
早速見ていきましょう!
職を転々として画家へ
画商の仕事

グーピル商会ハーグ支店
ゴッホ16歳のとき、学校を中退し、セント伯父のコネで画商グーピル商会のハーグ支店で働き始めました。
この頃から弟テオと文通を始めました。
入社当初は興味絵思って勤めており、熱心に絵の勉強もしていました。
そしてこのグーピル商会が得意としていたのが、ミレーを中心としたバルビゾン派の絵でした。

フィンセント・ファン・ゴッホ《私道》1872-1873年
19歳のとき、テオがグーピル商会のブリュッセル支店で働き始めました。
ゴッホは周りとうまくやれない孤独感を癒すように、テオのお金で娼館へ通っていました。

フィンセント・ファン・ゴッホ《眠っている老婆》1873年
20歳のとき、ロンドン支店に転勤になりました。
表向きは栄転でしたが、実際には上司のテルステーフやセント伯父との関係悪化や、ゴッホの娼館通いなどの不品行が原因でハーグを追い出されました。
下宿先の娘ユルシュラに告白をしましたが、婚約者がいると言われ断られます。(諸説あり)
どちらにせよ、孤独を深めたゴッホは、宗教(キリスト教)にのめり込むようになります。

《グーピル商会パリ・シャプタール通り店の絵画ギャラリー》1860年頃
22歳のとき、パリ本店に転勤になりました。
この1年前に第1回印象派展が開催されていたことから、印象派の画家たちの動きを知っていたとしてもおかしくありません。
ゴッホは各都市で、美術館や博物館に足しげく通い、先人たちの絵に触れました。
聖書やケンピスの『キリストに倣いて』を夢中になって読み、金儲けだけを追求するようなグーピル商会の仕事に反感を募らせていました。

フィンセント・ファン・ゴッホ《エッテンの牧師館と教会》1876年
23歳のとき、グーピル商会から解雇され、両親を失望させます。
解雇の理由の一つは、前年、クリスマス休暇を取り消されたにも関わらず、無断でエッテンの実家に帰ったことでした。
さらに、当時盛り上がっていた宗教問題に傾倒しすぎて、画商の仕事を放りだしてしまったことも原因でした。
無給の教師に

フィンセント・ファン・ゴッホ《ラムズゲートのロイヤルロードの眺め》1876年
その後、イギリスにある小さな寄宿学校で、無給で教師として働きました。
ゴッホはフランス語初歩、算術、書き取りなどを教えました。
伝道師になって労働者や貧しい人の間で働きたいと考え始めたゴッホは、教師をやめ、組合教会のジョーンズ牧師の下で、少年たちに少年たちに聖書を教えたり、貧民街で牧師の手伝いをしたりしました。
クリスマスに帰省したとき、聖職者になるには7、8年もの勉強が必要で無理だという父の説得を受けました。

ドルトレヒトのスヘッフェルス広場 左から3軒目がブリュッセ&ファン・ブラーム書店 1877年
そこで24歳のとき、南ホラント州ドルトレヒトの書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働きました。
言われた仕事はやるものの、暇を見つけては聖書を英語やフランス語やドイツ語に翻訳していました。
この時の下宿仲間で教師だったヘルリッツは、ゴッホは食卓で長い間祈り、肉は口にせず、日曜日にはオランダ改革派教会だけでなく様々な宗派の教会に行っていたと語っています。
どうしても聖職者になりたい

フィンセント・ファン・ゴッホ《開かれた聖書の静物画》1885年
どうしても聖職者になりたかったゴッホは、受験勉強に耐えることを約束して父を説得しました。
アムステルダムのヤン伯父の家に下宿し、ストリッケル牧師に助けてもらいながら勉強をしました。
しかし、受験科目の多さに挫折し、精神的に追い詰められたゴッホは、パンしか口にしない、わざと屋外で夜を明かす、杖で自分の背中を打つというような自罰的行動に走りました。
様子を見に訪れた父からは、勉強が進んでいないことを厳しく指摘され、学資も自分で稼ぐように言い渡されます。
ゴッホは、ますます勉強から遠ざかり、ユダヤ人にキリスト教を布教しようとしているチャールズ・アドラー牧師らと交わるうちに、貧しい人々に聖書を説く伝道師になりたいという思い始めます。
一緒になってボロボロの服を着る

フィンセント・ファン・ゴッホ《ラーケンの「AuCharbonnage(炭鉱)」カフェ》1878年
25歳のとき、10月の試験の日を待たずに、ヤン伯父の家を出てエッテンに戻り、今度はベルギーのブリュッセル北郊ラーケンの伝道師養成学校で、3か月間の実習期間を過ごしました。
期間終了時、学校から、フランドル生まれの生徒と同じ条件での在学はできないが、無料で授業を受けてもよい、という提案を受けました。
しかしゴッホは、引き続き勉強するためには資金が必要だと考え、伝道師を志し、炭鉱の町ボリナージュへ行き、パン屋の家に下宿しながら伝道活動を始めました。
熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と、月額50フランの俸給が与えられることになりました。
これに異常なほどのめり込んだゴッホは、貧しい坑夫たちに説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫のようなボロボロの服を着て、同じような生活をして、彼らの心に寄り添おうとしました。
しかし、ゴッホの行動は空回りし、人々の理解を得ることもできず、教会の伝道委員会も、ゴッホの常軌を逸した自罰的行動に「良識と精神の均衡に欠けている」とし、伝道師の威厳を損なうものとして否定します。
ゴッホが伝道委員会からの警告に従うことを拒絶すると、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られました。
父との絶えない喧嘩

フィンセント・ファン・ゴッホ《ボリナージュのコークス工場》1879年
26歳のとき、同じくボリナージュ地方のクウェムの伝道師フランクと坑夫の家に移り住みました。
父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしていましたが、家族からは仕事をしていないゴッホに厳しい目が注がれ、彼のもとを訪れた弟テオからも「年金生活者」のような生活ぶりについて批判されます。

フィンセント・ファン・ゴッホ《死の床にある女性》1880-1881年
27歳のとき、全てに絶望して、お金も食べ物も泊まるところもないのに、北フランスへ放浪の旅に出て、ひたすら歩いて回りました。
そしてついにエッテンの実家に戻りましたが、常軌を逸する行動が増えてきたゴッホの扱いに困った父親は、彼を精神病院へ入れようとします。
そのことで口論になり、クウェムへ戻りました。
この頃からテオの生活費の援助が始まり、画家を目指したらどうかと勧められます。

フィンセント・ファン・ゴッホ《雪の中の鉱夫》1880年
また、この時期、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、ゴッホは本格的に絵を描くことを決意しました。
まずゴッホは、以前から知っていたバルビゾン派の画家たちの版画の模写から始めました。
これらの版画は、画商時代に知っていたものでしょう。
こうして、ゴッホは画家の道を歩み始めました。