ゴッホが描いた糸杉の意味とは?生と死のイメージを持つ木だった?超解説!

こんにちは!

今回は、ゴッホが描いた糸杉の絵を紹介します。

早速見ていきましょう!

ゴッホが描いた糸杉

糸杉は死を意味する?

フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のプロヴァンスの田舎道》5月12-15日

糸杉は、街路樹や公園樹に使われ、腐敗しにくいため、建築材、彫刻、棺などに幅広く使用されてきました。

さらに、糸杉は、文化や宗教との関係が深い木でもあります。

きれいな円錐形になるため、クリスマスツリーにも使われる木です。

イエス・キリストが磔にされた十字架は、この木で作られたという伝説があります。

ギリシャ神話では、美少年キュパリッソスが姿を変えられたのがイトスギだとされています。

糸杉の花言葉は、「死・哀悼・絶望死」のため、墓地にもよく植えられています。

それとは反対に、イトスギは、「生命や豊穣」のシンボルでもあり、古代エジプトや古代ローマでは神聖な木として崇拝されていたほか、キプロス島の語源になったともされています。

死と生の双方にまたがるイトスギの象徴性が意識された作例には、レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』、フラ・アンジェリコの『聖コスマスとダミアンの斬首』、ファン・エイクの『神秘の子羊』、クラーナハの『楽園』などがあります。

では、ゴッホの場合はどちらの意味で描いていたのでしょうか?

オベリスクのよう

Washington Monument Dusk Jan 2006.jpg

ワシントン記念塔

ゴッホは弟テオへの手紙に「いつも糸杉に心惹かれている」と書いていたり、糸杉の美しいラインは、エジプトのオベリスクのように調和がとれていると語っていました。

映画『スパイダーマン:ホームカミング』など、ハリウッド映画によく出てくる、上の写真のワシントン記念塔もオベリスクです。

ゴッホの手紙を見ても、糸杉に対して特に「死」をイメージするといったような記載はなく、どちらかというとその圧倒的な存在感に魅せられて描いたようでした。

とはいえ、自分の死期が近いことはなんとなく察していた節のあるゴッホは、そんな自分の状態を表すような、生と死、両方の意味を持つ「糸杉」がぴったりのモチーフに思えたのかもしれません。

糸杉に似ているポプラ

フィンセント・ファン・ゴッホ《丘を抜ける道の2本のポプラ》1889年10月

上の《夜のプロヴァンスの田舎道》は糸杉で、この絵はポプラです。

題名にポプラとなかったら糸杉だと思ってしまいませんか?

そうなんです、糸杉とポプラって画像を検索してもらうとよくわかるのですが、似ているんです。

絵になると題名に「糸杉」と入っていない限り、個人的に見分けがつきません…。

フィンセント・ファン・ゴッホ《アニエールのレストラン・リスパル》1887年夏

パリ時代に描いた絵ですが、さっそく糸杉なのかポプラなのか…

フィンセント・ファン・ゴッホ《花咲く果樹園、縁に糸杉》1888年4月

こちらはアルル時代に描いた果樹園シリーズの中の1枚です。

フィンセント・ファン・ゴッホ《花咲く果樹園、縁に糸杉》1884年4月

フィンセント・ファン・ゴッホ《花咲く桃の木々のある果樹園》1888年4月

フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)》1888年5月

これもどちらなんでしょう。ポプラかなぁ…。

糸杉に魅せられて

フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉》1889年6月

サン=レミの療養所に入ってから、療養所の近くにあった糸杉をメインで描くようになりました。

フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉と2人の女性》1889年6月-1890年2月

フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》1889年

サン・レミの療養所の窓から見た村の景色といわれていますが、家や教会や樹木の配置は架空のものです。

まばゆい光が渦巻く描写は、天の川だとする説だけでなく、発作の起こる直前の以上知覚だったのでは?ともいわれています。

宗教的幻想、聖書の暗示など、見る者に不安すら与える図像ゆえに、本作は様々に解釈されています。

ゴッホはテオの妻ヨーが妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送りましたが、テオがどんどん遠くへ行ってしまうように感じ、複雑な心境を覗かせています。

フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉のある緑の麦畑》1889年6月

フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉のある麦畑》1889年6月

フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉のある麦畑》1889年9月

フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉のある麦畑》1889年9月

病状は改善しつつありましたが、再び発作に襲われてから、度々発作を起こすようになりました。

発作の間、自殺未遂を起こしたりもしましたが、発作のない期間は冷静で、熱心に絵を描いていました。

この頃、絵が売れたり、他の画家から注目されたりと、評価され始めていました。

フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉と2人の女性》1890年2月

フィンセント・ファン・ゴッホ《家々と糸杉:ブラバントの回想》1890年3-4月

フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のプロヴァンスの田舎道》5月12-15日

体調が回復したゴッホは、最後に《夜のプロヴァンスの田舎道》を描いてから、サン=レミの療養所を退所し、最期の地、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地しました。

ポール・ゴーギャン《オリーブ山のキリスト》1889年

オーヴェルに移ってからゴーギャンに手紙で、《夜のプロヴァンスの田舎道》はゴーギャンの上の絵と同じく、苦悩と不屈をテーマにしたと書いています。