聴力を失って得たものとは?ゴヤの生涯を超解説!すごく嫌なヤツだった?

こんにちは!

今回は、ゴヤについてです。

早速見ていきましょう!

フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828年)

フランシスコ・デ・ゴヤ《自画像》1815年

フランシスコ・デ・ゴヤは、スペインの画家です。

画家を目指す

スペイン北東部アラゴン地方フェンデトードスで生まれました。

18世紀のスペインは、ヨーロッパ全体が近代化していく中、異端審問など宗教裁判所が時代遅れの権力を振るい続け、政治社会においては中世的封建制のなごりが色濃く残されていた保守的な国でした。

そのため、宮廷と庶民の生活の落差は、他のどの国よりも大きかったそう。

ゴヤの父親は鍍金師で、芸術が大好きでしたが、貧乏でした。

13歳から4年間、サラゴサで地元の画家に師事して絵画の修行をしました。

17歳のときと20歳のとき、王立アカデミー奨学生試験に挑戦しましたが、2度とも落選しました。

24歳のとき、大画家を目指してローマに行きました。

イタリア滞在中にルネサンスの傑作に出会い、フレスコ画の技法を学びました。

パレルモ・アカデミーから奨励賞を受け、25歳のとき、帰国しました。

26歳のとき、サラゴサのエル・ビラール大聖堂天井画のコンペに勝ち、注文を得ました。

コネで出世

27歳のとき、宮廷画家だった友人の妹ホセーファ・バイユー結婚し、翌年マドリードに移りました。

結婚したとき彼女は26歳だったため、当時の女性としては晩婚でした。

彼女との間には、20人の子供が生まれましたが、家庭は顧みず、他にも複数の女性との間にそれ以上の数の子供を作りました…。

29歳のとき、王立タペストリー工場で、下絵を描く仕事をしました。

城や貴族の館を飾るタペストリーの需要は多く、16年間で63点制作しました。

フランシスコ・デ・ゴヤ《日傘》1777年

王室所蔵のベラスケス作品に感動し、「ベラスケスとレンブラントがわたしの師匠」と言うように、模写をして勉強しました。

34歳のとき、アカデミー会員になりました。

フランシスコ・デ・ゴヤ《マリーア・テレサ・デ・ボルボン・イ・バリャブリーガ》1783年

妻の親戚のツテを使って、貴族社会にコネを広げていきました。

上の絵は、妻の義姉の夫が仕えている貴族の娘でした。

念願の宮廷画家

40歳のとき、スペイン王カルロス3世付き画家になりました。

カルロス3世は、さきほどの娘のおじさんでした。

フランシスコ・デ・ゴヤ《カルロス4世の家族》1800年

43歳のとき、カルロス4世が即位し、宮廷画家になりました。

上の絵は、尊敬していたベラスケスの代表作《ラス・メニーナス》へのオマージュでありながら、スペイン宮廷の腐敗をそれとなく表現しています。

宮廷画家という地位を手に入れたゴヤは、自分より下の人を見下したり、これ見よがしに自慢したり、思い通りにならない(王立アカデミー院長に立項をして落選)と怒ったりと、イヤ〜なやつでした。

聴力を失う

46歳のとき、原因不明の重病に侵され、痙攣と頭痛で死にそうになりました。

なんとか一命はとりとめたものの、後遺症で聴力を失いました。

皮肉なことに、今日ゴヤの代表作として知られる作品は、どれも聴力を失った後に描いたものでした。

フランシスコ・デ・ゴヤ《アルバ公爵夫人》1797年

美しいアルバ公爵夫人と恋に落ち、上のような作品を残しました。

人間の心の闇を描く

フランシスコ・デ・ゴヤ《なんの病気で死ぬのだろうか『カプリチョス』40番》1796-1797年

宮廷画家として注文をこなす一方で、自分の意思で気ままに(カプリチョ)絵を描き始め、53歳のとき、版画集「ロス・カプリーチョス」として出版しました。

「ロス・カプリーチョス」には宗教裁判所への痛烈な批判が多く含まれていたため、あまり売れませんでした。(これを所有していて「異端」だと思われると困るため)

フランシスコ・デ・ゴヤ《理性の眠りは怪物を生む『カプリチョス』43番》1796-1797年

267部刷って27部売りましたが、即発禁になり、2日後に自主回収することに…。

異端審問官に目をつけられたことを知ると、即座にこれを国王へ献呈しました。

王が受け取ったことによって、宗教裁判所はゴヤを咎めることができなくなりました。

61歳のとき、ナポレオン率いるフランス軍がスペインへ侵攻してきました。

62歳のとき、フランス軍対民衆の対ナポレオン独立戦争が勃発しました。

フランシスコ・デ・ゴヤ《もう助かる道はない『戦争の惨禍』15番》1810-1820年

64歳のとき、版画集「戦争の惨禍」に着手しました。

この版画の出版は、ゴヤの死からなんと35年後でした。

66歳のとき、妻が亡くなりました。

カラクリ絵画

フランシスコ・デ・ゴヤ《着衣のマハ》1800-1807年

フランシスコ・デ・ゴヤ《裸のマハ》1795-1800年

68歳のとき、《着衣のマハ》《裸のマハ》の作者として異端審問にかけられました。

スペインで禁じられていたヌードを、大臣ゴドイのために密かに描いていたことが、後々になってバレて問題になりました。

この絵には面白い仕掛けがあったのですが、長くなるので興味のある方はこちら↓

フランシスコ・デ・ゴヤ《マドリード、1808年5月3日》1814年

69歳のとき、42歳も年下レオカディア・バイスというドイツ系の家政婦(愛人)同棲していました。

黒い絵

フランシスコ・デ・ゴヤ《我が子を食らうサトゥルヌス》1820-1823年

73歳のとき、マドリード郊外に「聾の家」と通称される別荘を購入し、そこに引きこもりました。

「黒い絵」シリーズを、この家のサロンや食堂の壁に描き始めました。

詳細はこちら↓

ゴヤの「黒い絵」を全て紹介!不気味な黒い絵に囲まれて生活していた?

2020.04.29

最晩年の自画像

78歳のとき、当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて、フランスに亡命し、ボルドーに居を構えました。

80歳のとき、マドリードに一時帰国し、宮廷画家を辞任しました。

フランシスコ・デ・ゴヤ《俺はまだ学ぶぞ》1826年頃

82歳のとき、13日間の危篤状態の後、眠るように息を引きとりました。

その後墓地からゴヤの頭蓋骨だけが盗まれる事件がありましたが、犯人も目的も、頭蓋骨の所在についても一切不明のままなんだそう…。

まとめ

ゴヤは、ロココ風の軽い絵とコネで出世し、聴力を失ってからは作風がガラリと変わり、心の闇を描いた画家