こんにちは!
今回は、キルヒナーについてです。
早速見ていきましょう!
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(1880-1938年)
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《病人としての自画像》1918年
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーは、ドイツの画家です。
画家を志す
ドイツ西部、アシャッフェンブルグで生まれました。
18歳のとき、デューラーの作品を見るためにニュルンベルクへ行き、画家を志すようになりました。
21歳のとき、技師の父親から画家は食べていくのが大変だからと建築を勧められ、ドレスデンのザクセン工科大学建築科に入学しました。
しかし、大学を一時中断します。
23歳のとき、ミュンヘンで絵画の勉強をしました。
勢いで「ブリュッケ」を結成
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《ブリュッケの画家の肖像》1925-1926年
25歳のとき、ドレスデンで後期印象派の展覧会に行き、自分も過去の考えにとらわれない芸術家集団を作ろうと、大学の仲間ヘッケル、シュミット=ロットルフ、ブライルの4人で画家グループ「ブリュッケ(橋)」を結成しました。
このグループは、従来のアカデミックな芸術に反発して勢いで作ったグループだったので、共通の表現や主義を持っていたわけではないどころか、キルヒナー以外の3人は、絵を描いたことすらありませんでした。
ドレスデンの労働者街フリードリヒシュタットで、元肉屋のお店をアトリエにしました。
彼らはたいして絵も描かずに、散らかったアトリエで仲間とだらだら過ごすことが「カッコいい」と思ってやっていました。黒歴史かな…。
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《月の出:兵士と乙女》1905年
本人は「ムンクなんか知らない」と言っていましたが、どう考えてもムンクに似せたとしか思えない絵を何枚か描いています。
グループを結成してから半年後、第1回展覧会を開きましたが、全然人が来ませんでした。
会場はランプ工場のショールームでした。
以降、8年足らずの間に、ドイツ各地で約70回も展覧会を開催しました。
仲間は増えるも結束は弱くなり…
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《街頭、ドレスデン》1908年
27歳のとき、ドレスデン近郊モリッツブルクに出かけ、野外で共同制作しました。
ドレスデンの画廊でノルデの作品に出会い、自分たちのグループに勧誘しようとシュミット=ロットルフが熱烈な手紙を送りました。
結果、ノルデだけでなくヴァン・ドンゲンなどメンバーは次第に増えていきましたが、逆に結束は弱まっていき、長続きしませんでした。
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《帽子をかぶって立っている裸婦》1910年
上の絵のモデルは、恋人のドリス・グロスです。
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《モデルのいる自画像》1910年
31歳のとき、仲間と共にベルリンへ移住しましたが、メンバーはバラバラになってしまいました。
32歳のとき、カンディンスキーたちのグループ「青騎士」展に参加しました。
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《街頭の5人の女》1913年
33歳のとき、キルヒナーはメンバーの結束のため「ブリュッケ年代記」を書き、発表しましたが、キルヒナーの自分勝手な内容をめぐり仲間割れし、グループは解散しました。
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《街頭、ベルリン》1913年
戦場で心を病む
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《兵士としての自画像》1915年
34歳のとき、第一次世界大戦が勃発し、自ら志願して砲兵隊に配属されましたが、精神障害により除隊になり、サナトリウムで療養生活を送りました。
どれだけ戦争で心を病んだかというと、戦場で右手を失ったわけでもないのに、上の絵では切断した姿で自分を描いています。
なんと言っても、右手は絵を描く手です。
自由気ままに生きてきたキルヒナーが、戦争に直面してどれだけ無力な気持ちに襲われたのかが伝わってくる作品です。
37歳のとき、自動車事故で重症を負い、スイスで療養しましたが、筆の持てない状態が続きました。
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《バーゼルとライン川の眺め》1927-1928年
40代になると、制作活動を徐々に再開しました。
この頃、キルヒナーの評価が高まり、回顧展がドイツ各地で開かれ、バーゼルの若い芸術家たちがキルヒナーを訪れました。
ナチスに追い詰められて…
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《弓の射手たち》1935-1937年
50代になると、心身の衰弱がさらに激しくなり、肺結核も患いました。
53歳のとき、ナチス・ドイツ軍に作品639点が押収され、「退廃芸術展」に32点出展されたことにショックを受けます。
58歳のとき、ヴィルトボーデン・バイ・フラウエンキルヒの自宅でピストルで自ら命を絶ちました。
まとめ
・キルヒナーは、単純で荒々しい表現で描いた画家