こんにちは!
今回は、ジョジョの荒木先生も影響を受けている言われる画家シーレについて解説します。
早速見ていきましょう!
目次
エゴン・シーレ(1890-1918年)
エゴン・シーレ《自画像》1910年
エゴン・シーレは、オーストリアの画家です。
ブルジョワ
シーレは、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーン近郊のトゥルン・アン・デア・ドナウで生まれました。
彼の父親は帝国鉄道で働く鉄道員で、後に駅長に昇格しました。母親はチェコ系オーストリア人で、ボヘミア地方の裕福な建築業者の娘であり、熱心なカトリック教徒でした。
シーレ家は北ドイツ出身で、ルター派教会牧師、官吏、軍人、医者を輩出したブルジョワの家庭でした。
シーレは幼いころから絵を描くことが大好きでした。
彼は初等教育を受けるために、クロスターノイブルク市に移住しました。
そこで、美術を担当する教員から「天才だ!」と称賛されました。
エゴン・シーレ《レオポルト・ツィハチェックの肖像》1908年
15歳のときに父親が梅毒で亡くなり、叔父(上の絵)に引き取られました。
叔父はシーレが学業に励まないことを懸念しましたが、同時に芸術への強い興味に理解を示し、シーレに愛情を持って接しました。
ヒトラーが憧れた場所
エゴン・シーレ《クルムロフ礼拝堂》1907年
翌年、シーレはギムナジウム(日本でいう中高一貫校)ではなく、職人としての訓練を受ける許可を得て、16歳でクリムトと同じウィーン工芸学校に入学しました。
クリムトはそのまま職工として開業したのに対し、シーレはよりアカデミックな色合いが強く、純粋芸術を追求する場であるウィーン美術アカデミーを受験し、最年少で合格しました。
ちなみに、シーレが入学した翌年1907年と1908年に、同じアカデミーを受験して不合格だったのがアドルフ・ヒトラーでした。ヒトラーが画家を目指していたのは有名な話ですね。
ウィーン美術アカデミーはヒトラーにとって一生の憧れとなりましたが、シーレにとっては決まり切ったデッサン中心の授業と権威を振りかざす教師に失望しただけでした。
クリムトに弟子入り
エゴン・シーレ《フリーデリケ・マリア・ビアー》1914年
そこでシーレは、アカデミーの授業から離れ、代わりに工芸学校時代の先輩であるクリムトに弟子入りを志願しました。
クリムトとシーレの作風は必ずしも同じ路線ではありませんでしたが、クリムトは熱意ある後輩を大いに可愛がり、貧しいシーレがモデルを雇う代金を立て替えてあげるなど援助を惜しみませんでした。
エゴン・シーレ《枢機卿と尼僧(抱擁)》1912年
上の作品は、クリムトの《接吻》に影響を受けて制作されたといわれています。
また、クリムトは自身が率いる分離派をはじめとして、象徴派や表現主義など新たな作風を探求する芸術家たちが集うウィーン工房へのシーレの入会を勧めました。
18歳のときには、クリムトの全面的な支援を受けて、彼の最初の個展が開かれました。
19歳のときには、アカデミーを正式に退学し、アカデミー教育との決別を宣言。同時に、アカデミーを脱退した仲間たちと共に「ノイ・クンスト・グルッペ(新たなる芸術の集い)」を設立しました。
エゴン・シーレ《Knabe mit langem Rock》1910年
この絵とかすごいジョジョっぽさを感じる(笑)
ゴッホに影響を受ける
エゴン・シーレ《ひまわり》1911年
クリムトが開催したフランス印象派の絵画展で、ゴッホの作品に触れ、非常に大きな影響を受けました。
また、シーレが生まれた年が、ゴッホが亡くなった年であることから、「運命を感じていた」と語っています。
タブーを描く
エゴン・シーレ《画家マックス・オッペンハイマー》1910年
展覧会に触発されたシーレは創作意欲を刺激され、アカデミーの制約から離れた自由な創作活動に没頭しました。
彼の人体研究は単に人体構造を作品に反映させるだけではなく、性的な部分などタブー視されていた箇所も作品に取り入れることに挑戦しました。
エゴン・シーレ《両肘をついてひざまずく少女》1917年
死や性行為など、倫理的に避けられるテーマをむしろ強調するような作品を制作していきました。
裸体や性を描くこと自体は問題視される傾向が減りつつありましたが、彼の描く表現は非常に過激だと受け取られていました。
しかしシーレは倫理的に問題視されるような描写も怯まず作品へ用いていきました。
運命のミューズ
エゴン・シーレ《自画像》1912年
エゴン・シーレ《ヴァリの肖像》1912年
21歳のとき、シーレは自らの裸体モデルを務めていた17歳の少女ヴァリ・ノイツェルと同棲を始めました。
彼女はクリムトから紹介されたモデルだとも、街中でシーレが声をかけたとも言われており、知り合った経緯は定かではありません。
上の2枚の絵は、シーレとヴァリの対になった肖像画です。
孤独な2人は、一緒にいても孤独なままでした。
シーレのスケッチブックには、「私は今日、1913年1月8日に明言いたします。この世で誰も愛してはいません」というヴァリーの言葉が残されていました。
エゴン・シーレ《抱擁(恋人たち)》1917年
この絵のモデルも、ヴァリとシーレで、クリムトの《接吻》に影響を受けて描いた作品だといわれています。
怪しまれ捕まる
エゴン・シーレ《黒髪の裸の少女》1910年
親しい間柄となった2人は、ウィーンの喧騒を離れて、シーレの母方の故郷であるチェコのチェスキー・クルムロフ市に移りました。
シーレの家では娼婦などが出入りし、彼がヌードモデルを使って裸体を描いていることが近隣住民に知れ渡り、苦情が寄せられました。そのため、2人は町から追い出され、ウィーンに戻ることになりました。
そしてウィーン近郊のノイレングバッハにアトリエを開いたシーレは、下町の子供たちを誘い込んで絵のモデルにしたり、庭で女性モデルを裸にしてデッサンを描くなどしたため、再び近隣住民から追い出されることになりました。
14歳の少女がシーレの家で一夜を明かしたと警察に告げ、未成年誘拐と不道徳の罪で警察に逮捕され、24日間にわたって拘留されました。
その間、ヴァリーは毎日シーレのもとへ通い、面会を拒否された日には、独房の窓に食べ物を投げ込んでいたと言われています。
シーレ自身の手記によると、彼は家出少女に宿を貸しただけで、何らやましいことはしていないと書き残しています。
しかし、裁判所はシーレの絵を猥褻物とみなし、押収したばかりか、裁判官の1人は目の前でろうそくを使って絵を燃やすという挑発行為まで行ったといわれています。
エゴン・シーレ《夕日》1913年
出会いと別れ
エゴン・シーレ《縞模様のドレスを着て座っているエディット》1915年
24歳のとき、ウィーンに戻ったシーレは、通りを挟んで向かいに住んでいたブルジョワの家の娘、ハルムス家のエディットとアデーレ姉妹と出会いました。
シーレは2人のうちどちらかと結婚することを考え、最終的に妹のエディットを選びました。
シーレによれば、彼は社会的に許容される相手を選んだとしていますが、実際のところはエディットとヴァリの両方を繋ぎ留めたいと考えていました。
年に1回それぞれと2人でバカンスに行くなどといった妥協案を2人に提示しましたが、そのような提案は受け入れられるはずもなく、ヴァリはシーレの前から去っていきました。
エゴン・シーレ《死と乙女》1915年
そして、ショックを受けたヴァリは二度とシーレの前に現れませんでした。
シーレはこの時の経験を上の絵として描いています。
その後、ヴァリは従軍看護婦としての訓練を受け、クロアチアに派遣されましたが、1917年、23歳の若さで派遣先で病死しました。
結婚
25歳のとき、ウィーン市の中心部ドロテーア通りにあるオーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派のルター派シュタット教会で、エディットとの結婚式が執り行われました。
エディットの父親は北ドイツ出身の機械工のマイスターでルター派でした。
カトリックが圧倒的だったウィーンで、ハルムス家の属する少数派のルター派教会で結婚しています。
そのため、カトリック教徒のシーレの母親はこの結婚式には出席しませんでした。
シーレと母親の間に緊張が高まった結果、シーレはハルムス家やその姉妹とより密接な関係を築くことになりました。
姉とも不倫
エゴン・シーレ《膝を曲げて座っている女性(アデーレ・ハルムス)》1917年
結婚はエディットとしましたが、義姉のアデーレとも密接な関係を持っていました。
戦争と飛躍
結婚の3日後、第一次世界大戦が勃発し、シーレはオーストリア=ハンガリー帝国軍に召集されました。
作品制作も中止に追い込まれましたが、結果としてこの出来事はシーレの飛躍に繋がる結末となりました。
チェコ地方のプラハ駐屯部隊に配属されたシーレが上層部に画家として活動していることを説明すると、軍は芸術家を尊重し、シーレを前線勤務に就かせませんでした。
彼は主に後方のプラハで捕虜収容所の看守を務めつつ、戦争という経験の中でスケッチや作品の構想を続けることができました。
27歳のとき、首都ウィーンに転属となり、作品制作を再開できるようになりました。彼はこれまで温めていたアイデアに打ち込み、作品を制作していきました。
エゴン・シーレ《第49回ウィーン分離派展のポスター》1918年
28歳のとき、大戦も終わりに近づいたときにクリムトによる第49回ウィーン分離派展に50点以上の新作を一挙に公開し、それまであまり知名度の高くなかったシーレの作品群は一躍注目を集めました。
シーレの絵の価格は上昇し、要望を受けて次々と絵の買取依頼が舞い込むようになりました。
突然の…
シーレは富裕層の住むウィーン13区ヒーツィンク・ヴァットマン通り6番地に新アトリエを構えました。
エゴン・シーレ《家族》1918年
上の絵は、分離派展に出品した作品の一つで、シーレはこの絵を《うずくまるカップル》と呼んでいました。
画家の死後に《家族》というタイトルに変更されました。
男性のモデルはシーレですが、女性はエディットではなく、別のモデルを使ったという説があります。
さらに、元々は子供ではなく、花束が描かれており、シーレの妹の息子をモデルに、後に幼児に塗り替えられたといわれています。
高級住宅地に住み、成功した画家としての人生を歩み始めた矢先、妻エディットが大戦前後に流行していたスペイン風邪にかかり、彼の子供を宿したまま、10月28日に亡くなりました。
シーレも同じ病に倒れ、妻の家族に看護されましたが、妻が亡くなって3日後の10月31日に亡くなりました。
義姉アデーレによると、臨終に際してシーレは「戦いは終わった。もう行かなければならない。私の絵は世界中の美術館で展示されるべきだ」と語ったといわれています。
シーレは死の直前にエディットのスケッチを残しています。
まとめ
・シーレは、強烈に個性的なポーズで人物を描いた画家