こんにちは!
今回は、現在の印象派人気のきっかけとなったカサットの活躍についてです。
早速見ていきましょう!
目次
印象派の功労者 カサット
現在、アメリカの美術館には、素晴らしい印象派コレクションがありますが、 その礎を築くことができた背景には、画商ポール・デュラン=リュエルのアメリカ進出などの活躍だけでなく、メアリー・カサットのアメリカ上流社会における地位とその影響力と尽力があったからでした。
最初に印象派の絵を買ったアメリカ人
メアリー・カサット《ルイジーヌ・ハヴマイヤー》1896年
ニューヨーク出身のルイジーヌ・エルダーがパリで暮らしていたときに、フィラデルフィア出身の共通の友人を介して知り合ったのが11歳年上のカサットでした。
エドガー・ドガ《バレエのリハーサル》1876年頃
カサット32歳のとき、16歳(19歳とも22歳とも)のルイジーヌはパリの画廊でドガの《バレエのリハーサル》を、同行していたカサットの強い勧めもあって、自分の小遣いの100ドルで購入しました。
そして彼女は、アメリカ人として初めて印象派の絵を購入した人物となりました。
この記念すべき絵は現在、ネルソン・アトキンス美術館に所蔵されています。
ルイジーヌは当初、ドガの作品は「私にとってとても新しくて奇妙なものだった!どうやって鑑賞するのか、好きかどうかもよくわからなかった」と語っていましたが、カサットのアドバイスを信頼して、作品を購入しました。
また、ルイジーヌは「ドガを理解するには特別な脳細胞が必要だと思っていた」けれど、「ミス・カサットの脳細胞には何の問題もなかった」と言い、カサットの的確なアドバイスに基づいて作品を購入したと述べています。
メトロポリタン美術館の印象派コレクション
エドガー・ドガ《ステージ上でのリハーサル》1874年頃
カサットが39歳のとき、ルイジーヌは後に砂糖王として巨万の富を築くことになるヘンリー・オズボーン・ハヴマイヤーと結婚しました。
夫婦は共通の趣味だった美術品収集に熱中し、カサットにアドバイスをもらいながら、印象派の絵画を買い集め、アメリカ最大の美術コレクションを築くことになり、現在そのコレクションはメトロポリタン美術館に寄贈されています。
カサットは、ハヴマイヤー夫妻の視線をオールド・マスターズからフランス近代絵画へと向けさせることに成功し、アドバイザーとしての最初の任務は彼らのためにクールベの作品を探すことから始まりました。
アメリカ人に人気のある画家は…
クロード・モネ《ラ・グルヌイエール》1869年
ちなみに、アメリカ人の間では、印象派ではモネとドガが最も人気があり、カサットが勧めるのもこの2人の作品でしたが、物語性がある人物画を好んだルイジーヌはドガとマネがお気に入りでした。
エドゥアール・マネ《マタドール姿のヴィクトリーヌ・ムーラン嬢》1862年
現在、メトロポリタン美術館が誇るフランス近代絵画コレクションは、カサットが重要な役制を演じて築くことができたハヴマイヤー・コレクションの美術館に遺贈されたものが礎となっています。
エドゥアール・マネ《鉄道》1873年
ちなみにハヴマイヤー夫妻の集めたコレクションは、メトロポリタン美術館だけでなく、ワシントン・ナショナル・ギャラリーなど他の美術館にも寄贈されています。
婦人参政権運動
メアリー・カサット《ルイジーヌ・ハヴマイヤーと彼女の娘エレクトラ》1895年
カサットとルイジーヌがどれだけ仲が良かったのかは、カサットが滅多に描かなかった肖像画(家族を除いて)が残っていることからもよくわかります。
また、カサットが婦人参政権運動に協力したのも、ルイジーヌが熱烈な婦人参政権支持者であり同士でもあったからでした。
その運動資金を集めるために、カサット39歳のときに彼女を含む印象派の作品を集めて展覧会を開いたこともありました。
75歳のとき、64歳のルイジーヌは、第28代アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの肖像をホワイトハウスの芝生の上で燃やしたために逮捕されて時の人に。
その際、彼女は5ドルの罰金を支払うよりも留置場に入ることを選び、この大富豪は3日間を堀の中で過ごしました。
もちろん、それは5ドルを支払うことを渋ったためではなく徳義からの選択でした。
ルイジーヌもモリゾやカサット同様に、ただ単に甘やかされたお嬢様または有閑夫人だったのではなく、その社会的地位に甘んじることのなかった勇敢な闘士でした。
美術品購入のアドバイザーに
クロード・モネ《睡蓮》1906年
アメリカの若い芸術家たちは、カサットを鑑とし、こぞってアドバイスを求めました。
カサットは親戚縁者や友人たちに印象派の作品を投資として購入するよう働き始め、購入した作品をアメリカの美術館に寄付することを条件に、パリを訪れたアメリカ人富豪が美術品を購入する際にもアドバイザーを務めていました。
いかに印象派が新新な芸術か、いかに投資として有利な物件かを、あちこちに推薦してまわりました。
「モネをもっとたくさん買えばよかったのに」などという手紙も残しています。
彼女を通じて印象派の(金儲けの手段としての意味をも含む)魅力に開眼したアメリカ人は少なくありませんでした。
どうしてみんなカサットに助言を求めたのかというと、「あのカサット家が推薦するものなんだから、(どれだけ奇妙に見えても)すごい作品なんだな」って思ったからです。
カサット自身が画家だったことと、彼女のアメリカにおける社会的地位もあり、彼女のアドバイスは素直に信用されていました。
これって本当にすごいことで、当時、フランスでは印象派の絵というのはあまりにも前衛的すぎて人気どころか酷評されていました。
そんな印象派の絵を、アメリカの富裕層に納得させて購入させちゃうカサットはかなりやり手でした。
シカゴ美術館の印象派コレクション
クロード・モネ《セーヌ川、ベヌクール》1868年
不動産で財を築いたシカゴのボッター・パーマーと結婚した友人のバーサ・オノレに、ジヴェルニーのモネを訪ねるようアドバイスしたのもカサットでした。
こうしてパーマー夫人は、無事に直接モネから作品を購入することができました。
彼女が築いたパーマー・コレクションは、シカゴ美術館が誇る印象派コレクションの礎となっています。
そして、兄アレクサンダーも、印象派を勧める妹のアドバイスでモネ、ドガ、そしてピサロを好むようになっていました。
現在、アメリカの美術館が見事な印象派コレクションを誇ることができるのは、その基礎を築くことに貢献したカサットの尽力と情熱の賜物といっても過言ではありません。