こんにちは!
今回は、ゴッホとマウフェについてです。
早速見ていきましょう!
ゴッホとマウフェ
アントン・マウフェ《自画像》1884-1888年頃
マウフェとの出会い
アントン・マウフェ《浜辺の朝の乗馬》1876年
ゴッホは、画家を志した初期に、親元エッテンから約70キロメートル離れたハーグまで通って、義理の従兄弟(母方のいとこの夫)で、オランダ写実主義・ハーグ派の画家のアントン・マウフェ(モーヴ)から絵の指導を受けるようになりました。
28歳のとき、ハーグに移りました。
ハーグは、ゴッホにとって初めての土地ではありません。
グーピル商会に入社したときの最初の赴任地がハーグでした。
画商見習いではありましたが、同地の画家たちと交流があっても不思議ではありません。
当時は、ハーグ派の最盛期といわれる頃で、同派を代表する多くの画家がハーグにいました。
画家になることを決意したとき、最初にゴッホの頭に浮かんだのが彼らだったのでしょう。
しかもハーグ派は、バルビゾン派の活動に刺激を受けてオランダに成立した一派で、バルビゾン派に学んだ「自然のあるがままの姿」を描写することを、オランダの地で実践していました。
これは、ゴッホの画家人生を貫く哲学と一致します。
マウフェは、当時ハーグに住み、ハーグ派の主導的立場にありました。
ゴッホは、素描の練習を繰り返した上で、ようやく油絵を描き始めました。
木炭と紙さえあればできる素描とは違い、油絵は、絵の具をはじめ、定着剤やメディウム(展色剤)など、様々な道具が必要です。
ゴッホがテオへの手紙で「マウフェが、絵の具、絵筆、パレット、パレット・ナイフ、乾性油、テレピン、つまり必要なものすべてが入った絵の具箱を送ってくれた。これで油彩を始める準備が整ったわけだ」と伝えています。
彼のアトリエで3週間過ごし、マウフェから油絵と水彩画の指導を受けました。
マウフェは、ゴッホを励まし、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見ました。
アントン・マウフェ《羊飼いと羊の群れ》1880年頃
しかし、マウフェは次第にゴッホによそよそしい態度を取り始め、ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなります。
ゴッホはこの頃、シーンというアル中病気持ちで子連れで妊娠中の娼婦をモデルとして使いながら、(弟テオのお金を使って)金銭的な援助をするだけでなく、結婚しようとしていました。
ゴッホ は、マウフェの態度が冷たくなったのは、この交際をマウフェが理解してくれなかったからだと、それとなくテオへの手紙に書いています。
石膏像のスケッチから始めるよう助言するマウフェと、モデルを使っての人物画に固執するゴッホとの意見の不一致も原因のひとつだといわれています。
ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる傾向があり、マウフェに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていきました。
追悼の絵
フィンセント・ファン・ゴッホ《桃の木(マウフェの思い出に)》1888年
とはいえ、ゴッホのマウフェに対する敬意はその後も変わらず、マウフェの急死を聞いて、34歳のゴッホは、上の絵を彼の思い出として描き、マウフェの妻に贈っています。
絵の左下には「マウフェへの贈り物」と書いてあります。
フィンセント・ファン・ゴッホ《桃の木》1888年
《桃の木(マウフェの思い出に)》をマウフェの妻へプレゼントしたため、絵を複製し、こちらの絵を弟のテオに送っています。
ゴッホからテオへの手紙 書簡597 1888年4月13日
《桃色の果樹園》1888年、《桃の木(マウフェの思い出に)》1888年、《白い果樹園》1888年
ゴッホは、《桃の木(マウフェの思い出に)》と同時期に描いた2枚の果樹園の絵を並べ、三連祭壇画として壁に飾ろうと考えていました。
同時代には、ナビ派や親密派と呼ばれる画家たちが連作による装飾画を制作し始めていたこともあり、ゴッホがそれを知っていた可能性もあります。
「全部が統一した調和を持つように」と語ったことからもわかるように、ゴッホは装飾画を色彩の研究の重要なものの一つと考えていました。
クリスチャン・モアイェ=ピーダスン《花咲く桃の木、アルル》1888年
画家モアイェ=ピーダスンは、滞在先のアルルでゴッホと仲良くなりました。
上の絵は、ゴッホの描いた《桃の木(マウフェの思い出に)》と同じ木を描いた作品です。