こんにちは!
今回は、ルノワールが描いた最愛の妻アリーヌの絵について紹介します。
早速見ていきましょう!
アリーヌ・シャリゴ(1859-1915年)
アリーヌ・シャリゴは、フランスのシャンパーニュ地方の田舎の村エッソワで生まれました。
アリーヌは、洗練された女性…!というわけではありませんでしたが、純朴で、性格もよく、家庭的な女性でした。
母とともにパリに出てきてモンマルトルでお針子をしていた彼女は、20歳のとき、38歳だったルノワールと出会い、恋仲になりました。
しかし、ルノワールはアリーヌの存在を周囲にひた隠しにしていました。
労働者階級出身のアリーヌの存在は、ブルジョワ階級出身の周囲の人々を戸惑わせるだけだと思ったからでした。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《シャトゥーの漕ぎ手》1879年
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ルノワール夫人と犬》1880年
ピエール=オーギュスト・ルノワール《イラスト入りのジャーナルを読む若い女性》1880年
ピエール=オーギュスト・ルノワール《舟遊びをする人々の昼食》1880-1881年
左に座っている女性がアリーヌです。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ボートに乗る夫婦(アリーヌとルノワール)》1881年頃
ルノワールは、アリーヌへの思いを込め、左手の薬指に指輪を描いています。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ブロンドの入浴》1881年
12歳から働きづめに働いてきて、やっと経済的な安定を得たルノワールは、1881年2月末から3月にかけて40歳にして初めて外国へと旅に出ることにしました。
崇拝するドラクロワの足跡を辿るように、北アフリカのアルジェリアを訪れました。
そして 同年10月には芸術の国イタリアを訪れました。
現地では、アリーヌと合流しました。
上の絵はイタリア旅行中に描いた作品で、モデルはアリーヌです。
ルノワールはアリーヌがイタリアで合流したことも周囲に隠していましたが、 ルノワール同様に人のよいアリーヌが後年になってしゃべってしまいました。
彼女はこのイタリアへの旅を「新婚旅行」として大切な思い出にしていました。
しかし、ルノワールにとってイタリア旅行は、アリーヌとの思い出づくりのためだけではなく、ルネサンスの巨匠ラファエロの作品を観るための旅でした。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ブロンドの入浴》1882年
ルノワールは、アリーヌのようなふくよかでぼっちゃりした女性が好きでした。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《田舎のダンス》1883年
ピエール=オーギュスト・ルノワール《海岸沿い》1883年
ピエール=オーギュスト・ルノワール《大水浴図》1884-1887年
中央がアリーヌ、左がシュザンヌがモデルです。バチバチです。
当時のルノワールはアリーヌとシュザンヌと二股の交際をしていました。
三角関係についてはこちら↓
ピエール=オーギュスト・ルノワール《庭の女》1884年
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ルノワール夫人の肖像》1885年
アリーヌは、ルノワールのために、いつもアトリエをきれいに掃除し、パレットを磨き、花を飾っていました。
ルノワールは、アリーヌが生けた花を好んで描きました。
というのも、ルノワールにとって「花の絵を描くことは、女性の裸体を描くことと同じ」だったからです。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《庭で》1885年
ピエール=オーギュスト・ルノワール《母性》1885年
長男ピエールが生まれ、授乳している姿を描いています。
1885年3月にアリーヌが長男ピエールを出産しました。
代父を務めたのは、アリーヌの存在を知っていた数少ない友人だったカイユボットでした。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《母性》1886年
ピエール=オーギュスト・ルノワール《母と子》1886年
長男ピエールとアリーヌが描かれています。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ルノワール夫人と息子ピエール》1890年
ルノワール49歳、アリーヌ31歳のとき、2人は結婚しました。
ベルト・モリゾが友人のルノワールから、突然アリーヌと長男ピエールを初めて紹介されたのは、1890年4月にアリーヌと正式に籍を入れた翌年のことでした。
その際、アリーヌのあまりにずんぐりとした野暮ったい外見に驚愕したモリゾは、共通の友人である詩人のマラルメに手紙を書いているくらいです。
つまり、今度アリーヌを紹介された際には驚きを顔に出さないように……という配慮でした。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《りんご売り》1890年
アリーヌにりんごを差し出す田舎の少女を描いています。
横の少女が誰なのかはわかっていません。
麦わら帽子をかぶった少年は、ルノワールの甥のエドモンドでは?といわれていますが、ひとつ上の絵と似ているのでピエールのような気もします。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ルノワールの家族の肖像》1896年
ルノワールは、パリにある邸宅の庭にいる家族を描きました。
中心にいる緑の帽子の女性がアリーヌです。
アリーヌの腕を握っているのは長男のピエール、白い服を着ているのは次男のジャン、ジャンを支えているのはメイドのガブリエルです。
赤い服の少女は、隣人か友人だと考えられています。
ルノワールはこの絵を生涯離さず持っていました。
アリーヌの献身的な支え
1897年の冬、ルノワールは自転車から落ちて右腕を骨折し、持病のリウマチも悪化し、麻痺と痛みで絵を描くのにも支障をきたすようになりました。
アリーヌは、ルノワールの腕や手をマッサージしたり、包帯を変えたりとサポートしますが、ついに右腕が変形し硬直してしまいます。
さらに麻痺は、次第に両足にまで及んでいきました。
そこで、ルノワールのために車椅子を用意し、座ったまま片手でキャンバスの位置を変えられるように、特注の可動式イーゼルを職人に作ってもらいます。
アリーヌの献身的な支えによって、ルノワールは絵を描くことに集中することができていました。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ルノワール夫人とボブ》1910年
しかしアリーヌは、この絵の5年後、1915年、56歳でこの世を去ります。
実は三男クロード出産後から、糖尿病を発症していました。
ルノワールには心配をかけないよう病気を隠していました。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ばら》1915年
上の作品は、亡き妻に捧げた絵です。
生命力溢れる美しいバラの花を描くことで、アリーヌの永遠の命を表現しようとしたのかもしれません。
ルノワールはこの絵を、泣きながら描いたといわれています。
ルノワールも後を追うように、アリーヌの死の4年後に亡くなっています。
アリーヌの幸せそうな姿は、100年以上経った今でも、ルノワールの絵画の中で輝き続けています。