こんにちは!
今回は、ジャコメッティについてです。
早速見ていきましょう!
アルベルト・ジャコメッティ(1901-1966年)
アルベルト・ジャコメッティ《自画像》1917年
アルベルト・ジャコメッティは、スイスの彫刻家です。
父親は印象派の画家
ジョヴァンニ・ジャコメッティ《エンガディンの湖》1906-1907年
スイス、グリゾン州にある小さな村ボルゴノーヴォで生まれました。
村は、2つの3千メートル級の山に囲まれ、12月初めから2ヶ月間、太陽が昇らないような場所でした。
アルベルト・ジャコメッティ《父親の頭部 ラウンドⅢ》1927-1930年
父親は、スイス印象派を代表する画家ジョヴァンニ・ジャコメッティです。
上の絵は父親の作品です。
アルベルト・ジャコメッティ《ブルーノ》1916年頃
ジャコメッティは4人兄弟の長男で、1歳違いの弟ディエゴは、ジャコメッティの助手兼モデルを務め、後に家具職人に、末子ブルーノは建築家になりました。
アルベルト・ジャコメッティ《オットーリア》1920年頃
上の絵は、ジャコメッティの妹で、上から3番目のオットーリアです。
5歳のとき、家畜小屋を改造した父親のアトリエで父親にデッサンを教わり、一緒に制作しました。
アルベルト・ジャコメッティ《2人の靴職人》1915-1917年
12歳のとき、最初の油彩画を描きました。
彫刻の道へ
アルベルト・ジャコメッティ《ディエゴの頭部、子供》1914-1915年
13歳のとき、彫刻の制作を始めました。
18歳のとき、ジュネーヴ美術学校に入学しましたが、数日で絵画には見切りをつけ、ジュネーヴ工芸学校のサルキソフのもとで彫刻を学びました。
21歳のとき、パリのグランド・ショミエールでロダンの弟子ブールデルの指導を受ながら彫刻を学びました。
午前は彫刻、午後はデッサンというスケジュールでした。
見たままに作れないなら…
アルベルト・ジャコメッティ《カップル》1926年
ジャコメッティは、「人物全体をとらえるなんて不可能だ!部分からとらえると他はバラバラになるし…これじゃ一生完成しない…!」と写生を諦め、記憶とイメージをもとに作品を制作するようになりました。
25歳のとき、イポリット・マンドロン街にある狭くて質素なアトリエに移り、生涯ここに住みました。
アルベルト・ジャコメッティ《頭を見て》1928-1929年
28歳のとき、エリュアールたちと知り合い、シュルレアリスムのグループに参加し、シュルレアリスムの彫刻家として評価されました。
アルベルト・ジャコメッティ《捨てられないオブジェ》1931年
アルベルト・ジャコメッティ《午前4時の宮殿》1932年
33歳のとき、シュルレアリストたちと別れました。
極端
34歳のとき、モデルを使った基本的な仕事を開始し、5年間続けました。
まず最初に、複数の人体を構成した彫刻を試み、モデルを見て構成を練ろうとしたところ、「人物全体をとらえるなんて不可能だ!部分からとらえると他はバラバラになるし…これじゃ一生完成しない…!」と20代の頃と全く同じことで挫折します。
アルベルト・ジャコメッティ《ディエゴの頭部》1934-1941年
次に人体彫刻に専念しました。
弟のディエゴをモデルに制作を開始しましたが、1週間経っても全く制作が進まず、大きな石から制作していた彫刻が、数ヶ月後には手のひらサイズまで小さくなっていました…。
上の作品のサイズは10㎝もありません。
ジャコメッティいわく、見ているものに近づけようとするとどんどん小さくなってしまったんだとか…。
細長くなった理由
アルベルト・ジャコメッティ《自然からのアネット》1954年
そこで、次は、妻のアネットをモデルに、彫刻の高さを固定してから制作を始めました。
しかし、似せようとして制作していくと、今度は縦に細長くなってしまいました…。
アルベルト・ジャコメッティ《鼻》1947年(1949年版)
妻のアネットとは、第二次世界大戦中にスイスに亡命したとき、赤十字の秘書だった彼女と出会い、ジャコメッティ48歳のときに結婚しました。
世界で最も高価な彫刻
アルベルト・ジャコメッティ《指さす男》1947年
上の作品は、世界で最も高価な彫刻として有名です。(オークションでの彫刻作品の最高額)
《指さす男》自体は6体制作しており、その中のひとつがオークションにかけられました。
アルベルト・ジャコメッティ《犬》1951年
日本人をモデルにするも…
54歳のとき、フランスに留学していた哲学者の矢内原伊作の肖像画を描き始め、72日間、1日の休みもなく昼過ぎから深夜まで描き続けましたが、思うような作品が完成しませんでした。
日が暮れて暗くなっても、ジャコメッティの腕がしびれて動かなくなるまで制作は続いたそう…。
深夜、仕事が終わると食事に出かけ、そこでもテーブルにある紙ナプキンにデッサンをし、その後アトリエに戻り、朝まで違う絵を描いていました。いつ眠ってたの…。
アルベルト・ジャコメッティ《横向きの矢内原》1956年
55歳のとき、再び矢内原をモデルに42日間制作しました。
ジャコメッティに完成という考えはなかったようで、画商が作品を持っていく=制作の終わりだったそう。
また、ジャコメッティは、彫刻も油絵も作品ではなくデッサンと考えていたようで、作品を高額で買い取ろうとする人物に、「もっと安く買って安く売りなさい」と言っていたとか。
アルベルト・ジャコメッティ《矢内原伊作》1958年
58歳のとき、矢内原はパリで4度目のポーズを48日間とり、ジャコメッティは休みなく制作しました。
12月に、胸像の写真を見た妻が「似ている」と言ったとか。
アルベルト・ジャコメッティ《矢内原の胸像Ⅰ》1960年
59歳のとき、矢内原は、5度目となる最後のポーズを31日間とり、ジャコメッティは肖像画と胸像を制作しました。
名声と晩年
アルベルト・ジャコメッティ《歩く男Ⅰ》1960年
つい最近まで、スイスの100フラン紙幣の絵柄はジャコメッティの肖像と上の《歩く男》でした。
60歳のとき、ヴェネツィア・ビエンナーレでは、ジャコメッティのために1室が与えられ、大賞も受賞しました。
63歳のとき、世界各地で大回顧展が開催されました。
12月に心臓発作で入院し、64歳で亡くなりました。
まとめ
・ジャコメッティは、見たままを形にしようとして針金のような彫刻を生み出した芸術家