こんにちは!
今回は、ゴッホの名作が続々と生まれた時期、アルルでの生活について解説します。
早速見ていきましょう!
夢と希望の「黄色い家」
日本への憧れと思い込み
フィンセント・ファン・ゴッホ《アルル近くの小道》1888年
34歳のゴッホは、弟テオのアパートを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとりました。
ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案しました。
当時すでに成功していたモネやルノワールなど画家と、当時まだ売れていなかった(けど、後には売れて、その時に売れない画家をサポートする)自分やゴーギャンなどの画家が協力し、絵の代金を分配しあって、画家同士で支え合っていこうというものでした。
なぜゴッホがこのようなことを言い出したかと言うと、日本の画家は、共同生活をし、お互いに助け合って生活していると勘違いしていたからです。
さらにゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの跳ね橋》1888年
35歳のとき、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描きました。
モデルとなったラングロワ橋は、街の南西にあるアルル=ブーク運河に架けられていましたが、1930年に架けかえられ、現在はアルル郊外の再建されています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《白い果樹園》1888年
春には、アンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と、花の季節の移ろいに合わせて果樹園を次々に描きました。
また、3月初めに、アルルにいたデンマークの画家ムーリエ=ペーターセンと知り合って一緒に絵を描くなどし、4月以降、2人はアメリカの画家マックナイトやベルギーの画家ボックとも親交を持ちました。
アルルってどんな街?
アルルは、古代ローマ時代の闘技場や史跡が残る街です。
ゴッホが描いた場所は、今もいたるところに残っており、街の観光案内所には、ゴッホゆかりの地をまとめた地図も用意されており、大きな街ではないので、1日あれば全てを歩いて回ることができます。
アルル時代に描いた絵を見ればわかるように、ゴッホは、アルルの史跡をほとんど描きませんでした。
ゴッホが古代の史跡よりも、自然やそこに暮らす人々を好んで描いていたことがよくわかります。
また、「まだ(アルルの)人々の心の中へ只の1センチメートルほども喰入っていない」と感じていたゴッホにとって、街中でイーゼルを立てるのは気が進まなかったのかもしれません。
黄色い家
フィンセント・ファン・ゴッホ《黄色い家》1888年
宿から高い支払を要求されたことを機に、ラマルティーヌ広場に面した黄色い外壁で2階建ての建物(黄色い家)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めました。
家賃は1日15フラン(現在のおよそ1500円)でした。
当初は、ベッドなどの家具がなかったため、4ヶ月間、3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていました。
ゴッホとゴーギャンはこの「黄色い家」の2階に住んでいました。
建物は現存していませんが、背後の4階建ての家は残っています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《黄色い家》1888年
「黄色い家」は、「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者マリー・ジヌーの一家が以前住んでいましたが、その後空き家になっていた不動産でした。
そのためマリーが、この不動産を取り扱っていた業者ベルナール・スーレに、ゴッホを賃借人として紹介したようだと考えられています。
ポン=タヴァンにいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《サント=マリーの海の風景》1888年
地中海に面したサント=マリー=ド=ラ=メールの海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描きました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《収穫》1888年
アルルに戻ると、炎天下、蚊やミストラル(北風)と戦いながら、毎日のように外に出てクロー平野の麦畑や、修道院の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描しました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ズアーブ兵》1888年
雨の日にはズアーブ兵(アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描きました。
ムーリエ=ペーターセンが帰国してしまい、寂しさを味わったゴッホは、ポン=タヴァンにいるゴーギャンとベルナールとの間でさかんに手紙のやり取りをしました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ラ・ムスメ》1888年
アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って《ラ・ムスメ》という題を付けました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《郵便夫ジョゼフ・ルーラン》1888年
同月、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像を描きました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》1888年
ゴーギャンが、ゴッホのひまわりの絵を気に入っていたこともあり、ゴッホはベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、《ひまわり》を4作続けて制作しました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェ》1888年
アルルの黄色い家の近くにあるマルティーヌ広場に面したところにあり、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた上の作品を、3晩の徹夜で制作しました。
この店は酔っ払いが集まって夜を明かす居酒屋で、ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いています。
この店には夜になると労働者や娼婦が集まり、本作にも酒に酔い、テーブルに突っ伏した客の姿が描かれています。
ゴッホは、極端な遠近法を用いて「人間の恐ろしい情念」を表現しようとしていました。
ポール・ゴーギャン《アルルの夜のカフェ》1888年
ゴーギャンもアルル到着後、同じカフェを描いています。
ゴーギャンが来る
フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの寝室》1888年
他の画家や、テオをこの「黄色い家」に誘いますが、誰も来てくれませんでした。
そんなとき、ポン=タヴァンにいるゴーギャンから、ゴッホに対し、手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられました。
ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、テオから送られてきたお金で、ベッドなどの家具を買い揃え、「黄色い家」に寝泊まりするようになりました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェテラス》1888年
同じ頃、上の作品を描き上げました。
ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねました。
過労で憔悴しながら、黄色い家の自分の部屋を描いた《アルルの寝室》を完成させました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ゴーギャンの肖像》1888年
1888年10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まりました。
ゴッホが来たのは2月20日なので、8カ月も1人で待っていたことになります。
それでもゴッホはゴーギャンを「彼はまったく偉大な芸術家だ、そうしてすぐれた友人だ」と尊敬し、念願の共同制作が始まりました。
どうしてゴーギャンがやって来たのかというと、テオの仕送りにより安定した収入を確保しようという金銭的理由が大きく、ゴッホのいう芸術家の共同体には興味がありませんでした。
2人は長さ20メートルの目の粗いジュート布(穀物などを運ぶ際の袋に使われる丈夫な布で、ゴーギャンが購入してきた)を分けあい画布にするなど、新しい表現方法にも挑戦しました。
この布は安価でしたが絵の具が塗りづらいため、2人は、絵の具を塗る前に施す地塗りを工夫しました。
初めは、一般的なチョークやバリウムを使っていましたが、やがてゴーギャンが白色顔料のジンクホワイトやリードホワイトを試すなど、効果を模索しました。
ゴッホもゴーギャンに学び、白色顔料の鉛白を用いるなど、共同研究を進めました。
上の絵は、そのジュート布に描かれた作品の一つです。
まるで盗撮写真のような1枚…。
ジュート生地を使い切ってからは、目の粗い布を画布として使うことはなかったため、ゴッホはこの制作方法をあまり気に入っていなかったことがわかります。
ポール・ゴーギャン《ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ》1888年
ちなみに、ゴーギャンの描いたこの絵を見たゴッホは、気が狂った人間のようだと激昂したそうです。
フィンセント・ファン・ゴッホ《アリスカン》1888年
2人は、街の南東のはずれにあるアリスカンの散歩道を描いたり、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりしました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《赤い葡萄畑》1888年
2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にしました。
ポール・ゴーギャン《アルル、ぶどうの収穫(人間の悲劇)》1888年
ゴーギャンは、アルルで見たぶどう畑の収穫の場面に、ブルターニュの女性と悲嘆にくれる女性を想像で加えて描いています。
前景の女性のポーズは、かつてゴーギャンが目にしたペルーのミイラからポーズを引用しており、死を暗示させるところがあります。
ゴッホは「ゴーギャンのような頭のいい仲間が得られて、しかもその仕事ぶりが見られることは、僕には実に為になることだ」と語るなど、当初は共同生活は順調でした。
ポール・ゴーギャン《アルルの夜のカフェで》1888年
また、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描きました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの女(ジヌー夫人)》1888-1889年
ゴッホの没後、1895年に画商ヴォラールの手に渡るまで、ジヌーは、ゴッホからプレゼントされた上の絵を手元に置いていました。
絵の描き方のスタイルが違う
フィンセント・ファン・ゴッホ《エッテンの庭の記憶》1888年
ゴッホは、モデルや風景なしに描くことができず、どんな天候でも屋外に出たのに対し、ゴーギャンは、構成を重視したため室内でも制作可能でした。
ゴーギャンはゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ゴッホは思い出により実家エッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描きました。
しかし、ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《種まく人》1888年
ゴッホは2点の《種まく人》を描きました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女》1888-1889年
また、郵便夫ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いています。
耳切り事件
フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの競技場の観衆》1888年
一方で、次第に2人の関係は緊張するようになりました。
ゴーギャンはベルナールに対し、ゴッホとは意見が合うことがほとんどないし、自分の絵を気に入ってくれてはいるが、いちいち口出ししてきて我慢ならないと不満を述べています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ゴーギャンの椅子》1888年
そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに、ゴッホとはうまくいかないしもう限界だからパリに戻るしかないと書き送り、ゴッホもテオに、ゴーギャンはこの黄色い家にも僕にも嫌気がさしたのだと思うと書いています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ファン・ゴッホの椅子》1888年
2人は汽車でモンペリエに行き、ファーブル美術館を訪れました。
ゴッホは特にドラクロワの作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワやレンブラントについて熱い議論を交わしました。
モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンがパリ行きをとりやめたことをテオに手紙で伝えたことから、関係が改善されたかと思いきや…
12月23日、ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生し、2人の共同生活は終わりを告げました。