こんにちは!
今回は、クールでスタイリッシュな美女レンピッカについてです。
早速見ていきましょう!
目次
タマラ・ド・レンピッカ(1898-1980年)
タマラ・ド・レンピッカは、ロシア帝国支配下のワルシャワ生まれのアール・デコの画家です。
裕福な家庭
父親はポーランド人弁護士、母親はポーランド人の上流階級(シュラフタ)出身という、裕福な家庭に生まれ、兄と妹がいました。
13歳のとき、スイス、ローザンヌの全寮制学校に通い、祖母とともにイタリアとコート・ダジュールに旅行し、イタリアの巨匠たちの絵画と出会います。
14歳のとき、両親が離婚し、裕福な叔母のいるロシア帝国の首都サンクトペテルブルクへ行きました。
叔母夫婦は、毎週新しい衣服や装飾品、家具などをフランクフルトから送らせており、レンピッカも、この贅沢な生活こそ人生唯一の価値であるように思い始めました。
一目惚れからのコネで結婚
15歳のとき、オペラ観劇で、プレイボーイのタデウシュ・ウェンピツキというポーランド人弁護士に一目惚れします。
18歳のとき、叔父のコネを利用して、彼と結婚し、贅沢三昧の新婚生活を送ります。
貧乏は無理
19歳のとき、ロシア革命が起き、夫と共に命からがらパリへ亡命します。
フランスでは弁護士活動のできない夫は、他の職を積極的に探す気もなく、
当面の間だけと考えて、持ち出した外貨や宝石を売って生活する日々に不安が募ります。
そんな中、21歳のとき、娘キゼットが生まれました。
ゴージャスな生活を維持するために画家へ
レンピッカの妹アドリエンヌも母親と共にパリに来ており、1920年代初めから美術アカデミーで建築を学んでいました。
叔母主催のパーティーで、元気のない姉を見て「どうしたの?」と訊くと、レンピッカは「お金がないの。夫は私を殴るのよ」と答えました。
そこでアドリエンヌは、「お嬢様の習い事」として絵を習っていたときに、よく褒められていたことをレンピッカに思い出させ、アカデミー・グラン・ショミエールのコースをいくつか履修すれば、絵を売って家族を養えるのでは?と提案しました。
ゴージャスな生活を維持するため、彼女は画家になる決意をしました。
アカデミー・グラン・ショミエールに入り、ドニやロートについて修行しました。
朝から晩までアカデミーの様々なコースに出席し、毎日のように美術館に出かけ名画を見て周り、模写し、合間に夫と娘の食事を用意し、芸術家仲間の集まりに顔を出して最新の情報を取り入れ、買い手を探し、夜、夫との喧嘩がなければ作品を制作しました。
元からの才能と成功しなければという強い意志があったため、1年間で驚くほどの上達をし、数年後には人気画家の仲間入りをします。
自己プロデュース力に長けていたレンピッカは、貧乏を隠し、経歴を秘密にし、年齢を大幅に詐称し、美貌と優雅な物腰で人々を魅了しました。
毎日3箱のタバコを吸い、鎮静剤を服用し、夜はパリのあちこちの有名なジャズクラブに出没し、コカインも摂取していました。
25歳のときには、主要なサロンに作品を出品するまでになり、スタイリッシュに服を身にまとい、スタジオを賃借し、車も購入、プライベート・バンクに預金口座を開けるまでに稼いでいました。
クリアでエレガントな作風
人物を枠ギリギリまで詰め込むようにして描き、色数は抑えつつ差し色を入れることによって、新鮮で、クリアで、正確で、エレガントで、都会的な雰囲気を演出しました。
知り合いだったピカソは、彼女について「統合された破壊の斬新さ」と語りました。
彼女は、印象派の画家の多くが下手に絵を描き、濁った色を使用していると考えていました。
肖像画家としての成功
タマラ・ド・レンピッカ《ロシア人の踊り子》1924年
27歳のとき、画商カステルバルコ伯爵の後援により、最初の個展がイタリアのミラノで開催されました。
彼女はそのために新たに28作を半年で描きあげました。
上の作品のモデルは、カステルバルコ伯爵の結婚相手、大指揮者トスカニーニの娘ウラリー・トスカニーニです。
その後も、公爵夫人、大公、貴族、科学者、作家、名士たちを描き、一流のサロンで展示されました。
タマラ・ド・レンピッカ《4人の裸婦のグループ》1925年
巨匠アングルを、当時の感性でアレンジした上の作品では猛烈な批判を浴びましたが、同時に「倒錯したアングルイズム」という称賛も受けました。
《アフリット侯爵の肖像》1925年
レンピッカは早描きで、3週間で作品を完成させることができ、肖像画家として引っ張りだこでした。
1927から1928年(29〜30歳)、肖像画1枚5万フランでした(2000ドルに値しますが、当時は現在の10倍の貨幣価値があったそう。つまり200万円…!)。
有名な自画像
タマラ・ド・レンピッカ《オートポートレート(緑色のブガッティに乗るタマラ)》1929年
27歳のときに描いた上の自画像は、ドイツのファッション雑誌『ダーメ』の表紙を飾りました。
彼女が実際に乗っていたのは小型ルノーでしたが、「高級スポーツカーに乗るクールな美女」を演出し、「こんな素敵な画家に、自分の絵もこんな風に描いてもらいたい…!」と思わせる、顧客を獲得するためのイメージ戦略としてこの絵を描きました。
大きな賞を受賞
タマラ・ド・レンピッカ《バルコニーのキゼット》1927年
29歳のとき、彼女は生まれてはじめて大きな賞を受賞しました。
フランスのボルドー国際美術賞の金賞で、受賞作品は娘を描いた上の作品でした。
両性愛者
タマラ・ド・レンピッカ《美しきラファエラ》1927年
彼女の美貌、そして両性愛者であることはよく知られていました。
当時の雰囲気としては、世界中のレズビアンがパリに集まってくるほど、レズビアン文化が発展していて、レンピッカとしては居心地が良かったようです。
彼女は、コレットなどの、文壇・画壇のサークルに属したレズビアンおよび両性愛者たちと親しく交際しました。
上の作品は、ブーローニュの森で出会った娼婦のラファエラです。
レンピッカの裸体モデルは、路上やカフェで話しかけた女性たちで、ほとんどが娼婦だったそう。
タマラ・ド・レンピッカ《シュジー・ソリドールの肖像》1933年
さらにシャンソン歌手のシュジー・ソリドールと親密になり、彼女の肖像画も描いています。
離婚
タマラ・ド・レンピッカ《ある男の肖像(タデウシュ・ド・レンピッキの肖像)》1928年
夫はそうした生活に疲れ、1927年に妻を捨て、翌1928年、正式に離婚しました。
レンピッカは娘のキゼットとも滅多に会いませんでした。
奪い愛
タマラ・ド・レンピッカ《ナナ・デ・ヘレラ》1929年
30歳のとき、その後長きにわたって彼女のパトロンとなる、ラウル・クフナー男爵から、彼の愛人の肖像画の依頼を受けます。
その愛人はスペイン出身のダンサーで、レンピッカいわく「会ってみると信じられないほど醜く、何度も描くのをやめようと思った。男爵の趣味の悪さに呆れた」とのこと…。
上の肖像画を描きあげましたが、いまいちパッとしない仕上がりに。
その後の展開にびっくりするのですが、レンピッカはモデルとなった愛人に代わって、ちゃっかり男爵の愛人となっています。強い。
アメリカへ
タマラ・ド・レンピッカ《緑の服の女》1930年
31歳のとき、アメリカ旅行をします。
ルーファス・ブッシュに依頼された肖像画を描くためと、ピッツバーグのカーネギー美術館での個展開催のためでした。
個展は成功したものの、預金していた銀行が株価暴落の影響で倒産し、金銭的には失敗に終わりました。
大人気
タマラ・ド・レンピッカ《アルフォンソ13世の肖像》1934年
1930年代初期、スペイン王アルフォンソ13世や、ギリシア王妃エリサヴェトの肖像画を描きました。
博物館はタマラの作品を収集しはじめました。
絵画の制作に追われ、忙しい日々を送りました。
上流階級への復帰
《ラウル・クフナー男爵の肖像》1932年
35歳のとき、クフナー男爵の妻が亡くなり、彼とチューリッヒで正式に結婚し、「男爵夫人」という貴族の位を手に入れました。
タマラ・ド・レンピッカ《修道院長》1935年
彼女の絵画の中には、貴族や冷たい裸体に混じって、難民、一般人、さらには聖人も描かれるようになりました。
タマラ・ド・レンピッカ《聖アントニウス》1936年
《聖アントニウス》という題名ですが、実際にはこの頃患っていたうつ病の治療を受けていたチューリッヒの精神科医の肖像画です。
ハリウッドスターお気に入りの画家
41歳の夏から、夫婦はアメリカで「長期休暇」を始めました。
レンピッカはニューヨークで個展を開きました。
カリフォルニア州のビバリーヒルズのハリウッドの映画監督キング・ヴィダーの家の向かいに住んでいました。
彼女は「筆を持つ男爵夫人」となり、ハリウッドスターのお気に入りの芸術家になりました。
ガルボのような仕草を身につけ、ハリウッドスターたちのセットを訪問し、反対に仕事場を訪問されたりしました。
当時多くの人がやったように、戦争救済事業にも参加しました。
43歳のときには、ナチ占領下のパリにいた娘キゼットをリスボン経由で救い出しました。
タマラ・ド・レンピッカ《鍵と手》1941年
この時期の彼女の作品のいくつかは、上の作品のように、ダリを思わせます。
飽きられる
タマラ・ド・レンピッカ《アメジスト》1946年
45歳のとき、夫婦はニューヨークに居を移しました。
この頃には画家としての名声はもはや失われていました。
タマラ・ド・レンピッカ《メキシコの女》1947年
彼らは上流階級向けの温泉に泊まるため、頻繁にヨーロッパに旅行しましたが、夫がハンガリーの難民の世話をしている間、新しい作風を模索し続けました。
描く対象を広げようと、静物画から抽象画まで手を出したり、筆の代わりにパレット・ナイフを使ったりもしました。
64歳のとき、イオラス画廊で新作を出展したましたが、好評は得られませんでした。
彼女は二度と作品を発表しないと決め、プロ画家を引退しました。
しかし、絵を描くことは続け、時々旧作を新しいスタイルで描き直したりしました。
夫が心臓発作で亡くなると、彼女は所持品を売り払い、船で3度の世界一周旅行をしました。
それからキゼットの住む、テキサス州ヒューストンに移り住み、雑用をキゼットに押しつけ、わがままを言いまくり、困らせ続けました…。
再熱
人気低迷していたレンピッカでしたが、流行の推移はすっかり一巡し、若い世代がタマラの芸術を再発見し、熱烈に支持されるようになります。
75歳のときの回顧展も大好評でした。
80歳のとき、年老いた世界中の仲間と少数の若い貴族に囲まれて暮らすため、メキシコのクエルナバカに移住しました。
81歳でキゼットに看取られ、亡くなりました。
彼女の遺灰は、ジョヴァンニ・アグスタ伯爵によって、ポポカテペトル山に撒かれました。
マドンナもファン
タマラ・ド・レンピッカ《アンドロメダ》1927-1928年
彼女の人生にヒントを得た芝居『タマラ』はロサンゼルスで2年間のロングラン、さらにニューヨークのでも公演されました。
1989年の映画『バットマン』でジョーカーを演じたジャック・ニコルソンは、レンピッカの作品をコレクションしています。(《美しきラファエラ》は彼が所有しているといわれています)
さらにマドンナもレンピッカの大ファンで、レンピッカの作品を収集しています。(上の《アンドロメダ》もそのひとつ)
ミュージックビデオにもレンピッカの作品を登場させ、レンピッカの知名度をさらに上げました。
まとめ
・レンピッカは、華やかな生活をするために肖像画家になり、大人気になった画家