こんにちは!
今回は、バジールとモネの微笑ましい(?)エピソードを紹介します。
早速見ていきましょう!
バジールとモネ
友達のモネ
南仏モンペリエの裕福なワイン製造業者の息子だったバジールは、22歳のとき、復活祭の期間に、モネ(23歳)と一緒にフォンテーヌブローの森近くのシャイイ=アン=ビエールに写生に行きました。
バジールは、親への手紙で、モネを「画家の卵の中で一番の友達」と呼び、「風景画がとてもうまい友達のモネと一緒でしたが、彼はとても有益な助言をいくつもしてくれました」と書いています。
モネと一緒にノルマンディーのルーアン、オンフルール、サン=タドレスに滞在し、制作しました。
オンフルールでは、モネの敬愛する先輩風景画家ブーダンとヨンキントに出会いました。
アトリエを使わせてあげる
フレデリック・バジール《フュルスタンべール通りのアトリエ》1865-1866年
年末、バジールは、フュルスタンベール通りに構えたアトリエにモネを誘い、一緒に制作するようになりました。
父親から多額の仕送りがあったため、バジールはたびたび、モネやルノワールを経済的に助けていましたが、父親からは、出費を心配して倹約を促す手紙が届いていました。
ギルバート・アレクサンドル・ド・セヴェラック《クロード・モネの肖像》1865年
上の絵の中にはこの3枚が描き込まれています。
クロード・モネ《オンフルールの浜辺》1864-1866年
また、このアトリエの1階には、かつて巨匠ドラクロワが使用していたアトリエがありました。
ここは現在、建物全体がドラクロワ美術館になっています。
クロード・モネ《並木道(サン=シメオン農場の道)》1864年
その冬、モネとバジールは、バジールの親戚ルジョーヌの家を頻繁に訪れました。
ここで、ファンタン=ラトゥール、ボードレール、ナダール、メートルたちと出会います。
ケガをしているモネを描く
バジール23歳の春、モネは再びシャイイに行き、大作《草上の昼食》の制作を始め、バジールに、モデルになってほしいと言って来るように誘いました。
《病床のモネ》1865年
その夏、バジールはようやくシャイイに着きましたが、着いてみると、モネは、事故でけがをし、宿のベッドから離れられない状態でした。
バジールは、医学の知識を生かし、重りや毛布を使ってモネの痛みが和らぐようにしてあげたそう。
そして、その様子を絵に描いています。(笑)
クロード・モネ《草上の昼食》1865‐1866年
のちにモネは、バジールを一番左にいる男性のモデルに使って《草上の昼食》を完成させました。
《シャイイの風景》1865年
一方、バジールが制作した《シャイイの風景》は、バルビゾン派に近い、静止した自然を描いています。
モネへの惜しみない支援
クロード・モネ《庭の中の女たち》1866年頃
バジール25歳のとき、経済的に常に困窮していたモネを見かねて、1867年のサロンで落選した26歳のモネの《庭の中の女たち》を、2500フラン(毎月50フランの分割払い)で購入し、モネを助けました。
また、モネの恋人カミーユが妊娠し、2人の関係を認めないル・アーヴルの家族との関係が悪化した際には、バジールはモネの父親に手紙を書いて仲裁しようとしたこともあったくらいでした。
1867年8月8日、モネとカミーユの長男ジャンが誕生しました。
バジールは、モネの長男ジャンの名付け親にもなっています。
モネは生涯、生活の苦しさや家族の間題など、自分の苦労を大げさに周囲に訴える「癖」がありましが、実家からの援助が途絶えてしまったモネは息子の誕生直後にも手紙で経済的苦境を繰り返し訴え、バジールに泣きついています。
その後、父親からも叔母からも見放されてしまったモネを、友情に厚い男だったバジールは何かと援助しました。