こんにちは!
今回は、モネのアメリカ人気の始まりについてです。
早速見ていきましょう!
モネ、アメリカで人気になる
前回のおさらい
モネはルノワールと制作旅行に出かけましたが、昔と違ってなんだかしっくり来なくて、再度1人で旅に出ました。
チューリップ畑
クロード・モネ《ハーグ近郊のチューリップ畑》1886年
モネ46歳の春、オランダを訪れ、ライデンとハールレムの間のチューリップ畑に魅了されました。
クロード・モネ《サッセンハイムのチューリップ畑》1886年
チューリップ畑の作品2点を、後に第5回国際絵画彫刻展に出品し、成功を収めました。
作家のジョリス=カルル・ユイスマンスも、これを見て「本当に眼のご馳走だ」と称賛しました。
アメリカでの人気
クロード・モネ《マンヌポルト(エトルタ)》1883年
ニューヨークのデュラン=リュエル画廊で「パリ印象派の油絵・パステル画展」が開催され、モネの作品は48点出品されました。
モネは「あなたがおっしゃるようにアメリカで成功したいとは思っています。でも、僕の絵は特にこの国〔フランス〕で有名になって、売れてほしいと思っています」と述べ、アメリカでの販売に冷淡でしたが、展覧会は好評でした。
この展覧会は、モネをはじめとする印象派の画家たちが、アメリカでの認知を受け、経済的に安定するきっかけとなりました。
デュラン=リュエルとジョルジュ・プティ双方からの貸与により、同年ブリュッセルで開かれた20人展にも出品しました。
最後の印象派展は不参加
この年、最後のグループ展となった第8回印象派展には、ルノワールやシスレーとともに不参加でした。
スーラ、シニャック、ピサロの新印象主義が大きな勢力を占めており、モネはこれを嫌って参加しなかったとも、画商からの独立性を保つために参加者はジョルジュ・プティの展覧会に出品してはならないとのアルマン・ギヨマンらの方針を受け入れられなかったためだともいわれています。
クロード・モネ《オランダのチューリップ畑》1886年
プティ画廊で開催された第5回国際絵画彫刻展に出品しました。
この頃にはモネの作品をはじめ印象派はすでに革新的でも前衛的でもありませんでした。
皮肉なことに、だからこそ印象派は世間に受け入れられ始めたのでした。
水夫と間違えられる
クロード・モネ《ベル=イルの岩、ソヴァージュ海岸》1886年
秋、ブルターニュ沿岸の島、ベル=イル=アン=メールを訪れ、コトン港のピラミッド岩や、ドモワ港のギベル岩といった奇岩を、さまざまな視点と天候の下で描きました。
このときモネと出会った美術批評家ギュスターヴ・ジェフロワは、のちに著した伝記で、モネの様子を次のように書いています。
「最初は、いつも辺りで見かける水夫の一人だと思った。モネは、風や潮のしぶきに立ち向かうために、長靴をはき、帽子をかぶり、水夫と同じような服を着ていたのだ。」
売れっ子画家へ
クロード・モネ《コトン港のピラミッド岩》1886年
47歳のとき、第6回国際絵画彫刻展に、ベル=イルの風景画など15点を出品しました。
荒削りであるとの批判と、オクターヴ・ミルボーなどの賞賛とに分かれましたが、作品のほとんどが売れ、モネは満足しました。
ホイッスラーからの招待
ロンドンに滞在し、ホイッスラーの招待でロンドンの英国王立美術家協会展に4点を出品しました。
この頃には、アメリカを中心にモネの絵は大人気となり、翌年には、国内でもモネの作品は1点約3000フランにまで高騰していました。
次回は、ゴッホの弟テオが登場&マネの作品を守ろう!編です。
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