こんにちは!
今回は、モネのサロンデビューとマネとの出会いについて解説します。
早速見ていきましょう!
モネのサロンデューとマネとの出会い
前回のおさらい
モネは、仲間(ルノワール、バジール、シスレー)と出会い、一緒に絵を描くようになりました。
サロン初入選
クロード・モネ《オンフルールのセーヌ河口》1865年
25歳のとき、1865年のサロンに上と下の絵を初出品し、初入選しました。
クロード・モネ《干潮のエーヴ岬》1865年
バルビゾン派を思わせる暗めの色調でノルマンディーの海岸線を描いたものでした。
マネ モネ…ややこしい!
エドゥアール・マネ《オランピア》1863年
そして、アルファベット順に展示されていたため、マネの《オランピア》と同じ部屋に展示されていました。
そのため、 モネの海景画はマネが描いたと勘違いする人が出てきました。
マネは、自分の名を利用していると勘違いして憤慨したとか…(後に誤解が解けて和解)。
マネの《オランピア》はスキャンダルを巻き起こし、「メスゴリラ」などと言われていたのに対し、モネの作品は批評家から好意的な評価を得ました。
マネ「草上の昼食」インスパイア作品
クロード・モネ《草上の昼食》1865-1866年
モネがシャイイーで制作したのが、マネの《水浴(草上の昼食)》に着想を得た作品《草上の昼食》でした。
マネは、モネのような若い画家たちのカリスマ的存在でした。
マネとモネの《草上の昼食》についての詳しい解説はこちら↓
翌年1866年のサロンに出品することを目指して制作をしていましたが、作品を完成させることなく、サロンへ出品することはありませんでした。
理由は諸説ありますが、作品を観たクールベから批判を受けてしまったためだと考えられています。
モネとマネとの出会い
クロード・モネ《シャイイへの道(フォンテーヌブローの森)》1865年
26歳のとき、その代わりにサロンに入選を果たしたのが上下の絵でした。
クロード・モネ《緑衣の女》1866年
この作品は、当時知り合ったばかりの恋人で4年後に結婚するカミーユがモデルです。
ベラスケスを思わせる暗い背景とともに描かれたこの作品は、スペイン趣味が強かったこの頃のサロンの審査員からも批評家からも好評でした。
前年のサロンではモネに対して憤慨したマネでしたが、彼も《緑衣の女》に注目し、それを知った友人のアストリュクがモネをマネのアトリエへと連れて行きました。
そしてマネの死まで、2人の友情は続くことになります。
父親の期待
1866年のサロンで、小説家で美術評論家のゾラ(セザンヌの親友)が『レヴェヌマン』紙にモネを賞賛する記事を書きました。
これを読んだモネの父は、息子の絵がすぐに売れるようになるものと思って、仕送りをしてくれるようになりました。
しかし、新聞で批評家に褒められたからといって絵が売れるわけではなく、父は同年末、カミーユと別れれば再開すると条件をつけて、仕送りをやめてしまいました。
このときすでにカミーユは第1子を妊娠しており、モネにはカミーユと別れることは考えられませんでした。
この先10年間、モネは、苦しい貧困の時代を過ごすことになります…。
サロンにも順調に入選し、順風満帆な画家人生かと思いきや…?!
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モネの生涯をノンストップ解説↓