こんにちは!
今回は、ドガ《田舎の競馬場で》とブルジョワの女性の役割についてです。
早速見ていきましょう!
ドガ「田舎の競馬場で」
エドガー・ドガ《田舎の競馬場で》1869年
この作品は、画商ポール・デュラン=リュエルに買い取ってもらった最初の作品の1つでした。
四輪幌馬車で競馬見物に来た家族が描かれています。
当時、競馬見物は上流階級のレジャーとして人気でした。
ドガの友人がモデル
友人のポール・ヴァルパンソンとその家族が描かれています。
余談ですが、アングルの有名な作品《ヴァルパンソンの浴女》は、当初このヴァルパンソン家が所有していたことから名付けられています。
シルクハットをかぶってポール・ヴァルパンソンと愛犬。
彼らが見つめる先には…
どちらが母親?
女性が2人と赤子が1人。
赤子を抱いている女性の片方の胸が露出していることから、授乳中だとわかります。
今の感覚で見ると、赤子を抱いている女性が母親だと思ってしまいますが、この子の母親は横で日傘をさしている女性の方です。
赤子を抱いているのは乳母です。
ブルジョワジーは、昔の貴族に倣って乳母に子育てをまかせていました。
家に住み込みの乳母や家庭教師がいることが、一種のステイタスシンボルでもありました。
ブルジョワの母は、我が子に授乳などしません。
当時、授乳は滑稽で不愉快な肉体労働とされており、下層階級の領域でした。
「主婦」であることがステータスだった
富裕層に属する女性たちは、労働者階級と全く違うということを常に見せつける必要があると考えていました。
というのも、ブルジョワジーは王侯貴族と異なり、何百年にもわたる由緒正しき血統書付きというわけではなく、勃興した基盤がかなり怪しいときては、それを気取られないようにせねばなりませんでした。
そのため、贅を凝らした室内装飾、最高級のドレス、一家に数台の高級車(馬車)、別荘、旅行、おおぜいの使用人など富をひけらかしました。
そんな彼女たちにとって、ドゥミ・モンディーヌと呼ばれるいかがわしい女が紳士にエスコートされ、堂々とオペラ座の桟敷席に座ったり、豪邸で夜な夜な宴会を開いたり、高価な衣装宝石を身にまとってパリの最新ファッションを牽引しているのは、どれだけ面白くなかったか。
彼女たちに対抗するように、ブルジョワ女性の化粧は薄くなり、控えめになりましたが、その代わり、衣装の上品さと身のこなしで差別化をはかりました。
そしてブルジョワ女性がブルジョワである所以は、「主婦」になったことです。
良妻賢母の模範となることで、社会に存在感をアピールしました。
使用人を束ね、自邸を家族のために居心地よく整え、パーティを催すなどの社交によって夫の出世を助け、我が子を教育しました。
これがやらざるおえなかったのか、やりたくてやったのかは本人にしかわかりませんが、現代の若い女性の専業主婦願望からもわかるように、一般的にはそれほど悪くはないと考えられていたのでしょう。
そして、母性が礼讃されはじめました。
印象派は母子像を多く描いていており、そこには聖母マリアを彷彿とさせる、母の無私の愛が描かれています。
親が子を育てない時代
当時、ブルジョワ女性が幼い子を手元に置き、それが主婦の鑑として賞賛されたこと、その影響力は想像以上に大きいものでした。
上を目指す市民階層やその下の女性たちまで、少しずつ真似し始めたからです。
つまりそれまでは、都市部に住む子どものほとんとが、親に育ててもらっていませんでした。
1780年の記録によると、パリに生まれた子ども2万1千人のうち、何と2万人が遠い田舎へ里子に出され、多くが早世しています。
ナポレオン3世時代に改善されたとはいえ、パリ生まれの新生児の半数が里子に出されたと試算されています。
逆に言えば、残り半数のうちかなりの部分が乳母をつけられるほど社会が豊かになったということの表れでもあります。
死亡率の高さから実母へ
では乳母さえ雇っておけば万全なのかというと、里子ほどではありませんが、幼児死亡率はなかなか改善されませんでした。
次第に世論は、実母による授乳を奨励するようになりました。
1898年にパリ最後の私立「乳母斡旋会社」が閉鎖されたのは、出生率の低下や粉ミルクの発展の他に、我が子は我が乳で育てる、との考えが広がったことによります。
ブルジョワ女性は以前ほど授乳に抵抗感がなくなり、乳母自身も、他人の子より自分の子に母乳を与える方を選ぶようになりました。
それでも1907年になおパリは、生まれた子の30パーセント以上を里子に出していたとの統計があります。
極貧に喘ぎ、避妊もままならぬ女性がいまだおおぜいいて、彼女らにできることといえば、里子か捨て子か子殺しでした…。(カトリックは堕胎を許さないため)