ドガの国際的な家庭を超解説!ハングリー精神旺盛なブルジョワ一家?

こんにちは!

今回は、ドガの家庭環境を解説します。

早速見ていきましょう!

ドガ一家

エドガー・ドガ《自画像》1855-1856年

ドガは典型的なパリジャンでありながら、印象派の画家たちの中では、最も国際的な家系に生まれた画家でした。

偉大な祖父

エドガー・ドガ《イレール・ド・ガスの肖像》1857年

祖父イレール・ド・ガスは、フランス革命期にパリで小麦の相場を張っていましたが、1793年になると王党派に属する人間と見なされ、あやうく断頭台へ送られるところを友人の忠告で九死に一生を得ました。

直ちにパリを脱出したイレールは、ボルドーから出航間際の船に乗り込み、最終的にナポリに落ち着きました。

そして優秀で誠実だった彼は、1799年にナポリに誕生したパルテノペア共和国の公債登録台帳を創設する任務に携わり、私生活ではジェノヴァ貴族の娘と結婚して、ドガの父オーギュストを含む子孫にも恵まれました。

思想的にも気質的にも典型的なパリジャンと見なされたドガでしたが、ナポリ人の血を引くだけあって、ナポリ訛りのイタリア語を完璧に話し、ナポリ民謡にも親しみ、ナポリ人が得意とする物真似上手な一面もありました。

物真似上手であるということは、鋭い観察力の持ち主ということであり、やがてドガは対象の本質的な部分を抽出して、鋭く再現することができる画家となりました。

音楽と芸術を愛する父

エドガードガ《スペインのテノール歌手ロレンソ・パガンスとオーギュスト・ド・ガス》1871-1872年

ナポリに銀行を創設した祖父が、一族の銀行のパリ支店を開設するために差し向けたのが息子で、ドガの父に当たるオーギュストでした。(上の絵では後ろにいるおじいさんがお父さんです)

彼は2代目らしく、音楽と絵画を愛する穏やかで品のよい男性でした。

一族の銀行のバリ支店長を務めたオーギュストは、画家としてのドガの誕生にも多大な影響を与え、精神的にも経済的にも全面的なサポートを息子にしました。

フランス系アメリカ人の母

一方、ドガの母親セレスティーヌ・ミュッソンは、彼女の父ジェルマン・ミュッソンの代にアメリカのニューオーリンズに植民したフランス人家庭の出身でした。

ミュッソン家は、綿の耕作と綿花販売で成功を収めた農園主であり実業家でした。

つまり、ドガの母親は、フランス系アメリカ人でした。

フランスの植民地時代が長かったニューオーリンズはフランス系住民の多い街であり、当時はニューヨークに並ぶ貿易 港でもありました。

5人兄弟

オーギュストとセレスティーヌの長男として生まれたドガの下には多くの兄弟がいました。

エドガー・ドガ《カデットの制服を着たアシル・ド・ガス》1856-1857年

海軍士官を経て、「ド・ガス兄弟」という会社を設立し、綿花とワインの取引をするようになる4歳年下の弟アシル、

エドガー・ドガ《テレーズ・ド・ガスの肖像》1863年頃

従兄のモルビッリ公爵と結婚して公爵夫人となる6歳年下の妹テレーズ、

エドガー・ドガ《マルグリット・ド・ガス》1858-1860年

建築家の妻になる8歳年下の妹マルグリット、

エドガー・ドガ《ルネ・ド・ガスの肖像》1855年

そして未亡人となった母方の従妹エステルと結婚し、ニューオーリンズでアシルとともに母方の家業を引き継ぐことになる11歳年下の弟ルネがいました。

ブルジョワ

エドガー・ドガ《ニューオーリンズの綿花取引所》1873年

上の絵は、ドガが叔父や弟をモデルにして描いた作品です。

ドガの家は、決して飛び抜けた大富豪というわけではありませんでしたが、ドガは裕福な上層ブルジョワ階級の家庭で育ったため、成人してからも上品な物腰と上流階級の作法が自然に身についており、ユーモアと教養に満ちた完璧な会話術を駆使できました。

そして、こうした出自にふさわしいかすかな尊大さがドガには漂っていました。

自分の内面を見せることを常に避け、表面的には真面目で慎み深い人となります。

ただし、自分の内面を隠すためなのか、大変な毒舌家でもあり、才気にあふれた当意即妙な応答は、素早く手厳しい口撃に転じることもありました。

ドガは権威や大衆におもねることをよしとせず、時に非妥協的であり、そして傍若無人に振る舞うこともありましたが、知性と育ちのよさから醸し出される威厳と優雅さは常に保っていました

ドガと同じ上層ブルジョワ階級で、高級官僚の家庭に育った友人のマネは、常に周りに気を遣い社交的だったのに対し、新天地のナポリやニューオーリンズで事業を展開し、見事に成功した企業家精神のある祖父たちを持つドガは、他人の批判に対して無関心で自分に関係のないことと見なしていました。

マネがサロンでの社会的評価を渇望したのに対し、ドガは権威におもねることを何よりも嫌悪していました。

芸術に理解のある両親だった

そんなドガが育った環境は財界人の家庭でありながら、とても芸術的な薫りに満ちたものでした。

父親は音楽家を家に招いてリサイタルを催すほど音楽と絵画を愛し、オペラを愛した母親は、自らもアリアを歌いました。

しかしその母親は、ドガが13歳の時に37歳の若さで亡くなってしまいましたが、ドガは父親からの全面的なサポートを受けて成長していきました。

少年の頃からデッサンの才能を見せたドガに対し、父オーギュストは高級官僚だったマネの父親のように渋い顔を見せるどころか、とても喜びました。

そして、この父親のおかげでドガは40歳近くまで自ら生計を立てる必要もなく、芸術家への道を探究することができました。

芸術に造詣が深かった父親が、息子の芸術家としての素質を理解していただけでなく、芸術家を育てる術を熟知し、その環境を整えることを怠らなかったことは、ドガにとって幸せなことでした。