こんにちは!
今回は、普仏戦争とパリ・コミューンについてです。
早速見ていきましょう!
普仏戦争とパリ・コミューン
普仏戦争
エルネスト・メッソニエ《1870年のパリ包囲戦》1884年頃
アカデミーは、王は変わっても、依然としてその好意を受け続け、ナポレオン3世自身も伝統芸術の権威を借りるという、双方利害の一致する関係を結んでいましたが、そこへ普仏戦争が勃発しました。
「普」というのは、プロイセンのことです。
鉄血宰相ビスマルクが、プロイセンを中心にしたドイツ統一をめざし、フランスを挑発、3世はそれにまんまと乗せられてしまいます。
カミーユ・ピサロ《クリスタル・パレス》1871年
1870年7月に始まったこの戦争に、印象派の画家たちも巻き込まれ、ルノワール、マネ、ドガ、バジールらが参戦し、モネとピサロはロンドンへ疎開しました。
上の絵は、ピサロがロンドンのクリスタル・パレスを描いた絵です。
ジャン・フレデリック・バジール《自画像》1865-1866年
パジールの知名度が低いのは、若くしてこの戦いで命を落としたためです。
戦争のゆくえはあっけないものでした。
開戦2ヶ月足らずで、ナポレオン3世はプロイセン軍の捕虜になります。
本人はかなりの屈辱を感じたと思いますが、勝利を信じて戦争熱にうかされていたフランス国民は、騙されたと怒りの矛先を彼に向けました。
3世は釈放後イギリスへ亡命し、その地でまもなく亡くなりました。
フランツ・ヴィンターハルターの追随者《フランス皇后ウジェニー》(1853年頃の作品のコピー)1855-1870年
余度ですが、彼の愛妻で、ハプスブルク家のエリザベート皇后と美貌を競ったことでも有名なウジェニー皇后は、スペイン貴族の娘でした。
そのため同じ異国の花嫁マリー・アントワネットに深い関心を寄せており、3世が戦場で捕まったとの報を受けて亡命するとき、「死ぬのは平気だけれど、パリの野蛮な女どもに何をされるかわからないから逃げる」と言っています。
最底辺に喘ぐ人々の憎悪をよく知っていて、第2のアントワネットになるのを怖れたのでしょう。
宮廷が国を捨てたことで、ついにフランスは今度という今度こそ、900年続いた絶対王政と決別しました。
法的にはこの16年後、1886年、共和国政府がやっと王位継承権主張者および王族をフランスから追放してからですが。
とりあえず、まだ一波乱あり、パリ市民は、王不在のまま国民軍を組織して戦いを続行したので、プロイセン軍に4ヶ月も包囲され兵糧攻めにあいました。
餓死者および飢えによる病死者は4800人もいました。
動物園のゾウまで食用に供されました。
結局抵抗むなしく 開城せざるをえず、ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」にて、ドイツ帝国宣言がなされました。
ドイツ軍はしかし、パリに長居しませんでした。
多額の賠償金とアルザス・ロレーヌ地方を手に入れるなりさっさと引き上げ、続いて起こったのは、フランス人同士の争いでした。
パリ・コミューン
マクシミリアン・リュス《1871年5月コミューン下のパリの街路》1903-1905年
臨時政府VSパリの急進的コミューン(「コミューン」とは、中世に起源をもつ市民だけの都市共同体の意)。
戦いは当初コミューン優勢でしたが、最後は壊滅させられます。
2万人以上の死者を出した「血の一週間」の惨劇は、上の絵に描かれたとおりでした。
そんなわけで、フランスが完全に国力を回復するのは1880年代以降ですが、急速に産業革命も進み、都市文化が栄える「市民の時代」は、もうすぐそこでした。
まさに印象派の絵のように、表面の明るい時代が到来しつつありました。