こんにちは!
自分の作品に対して著作権を主張しないといけないほど、人気になった画家を知っていますか?
早速見ていきましょう!
目次
ウィリアム・ホガース(1697-1764年)
ウィリアム・ホガース《自画像》1745年
ウィリアム・ホガースはロココ時代のイギリスの画家です。
ロンドンの下町で生まれました。
パグが大好きで、上の自画像では愛犬トランプも一緒に描いています。
パグ溺愛しすぎて、周りから「パグ画家」と呼ばれていたとか。かわいい。(笑)
また、ビフテキも大好きで、友人と「ビフテキ愛好会」を作ってわいわいしていたそう。
負債者監獄で暮らす
父親は、教科書出版の事業に失敗し、ラテン語の教師として働いていましたが、子供が9人もいたので家は貧乏でした。
11歳のとき、父親が高級コーヒー店を開こうとしますが、これもまた失敗、一家はとうとう債務者監獄で暮らすことに…。(といわれていますが、実際にホガースたち家族も一緒に暮らしていたのか、父親本人だけだったのかは不明)
獄中で2人の兄弟が亡くなっています。
ここでの生活が、後の作風に影響していると考えられています。
修行
ホガースの名刺 1720年
15歳のとき出獄し、17歳で銀細工師エリス・ギャンブルに弟子入りします。
食器などに紋章や装飾を浮彫するいつも同じ決まり切った仕事で、ここでの経験は何の役にもたたなかったと、後年書き記していますが、実際にはここで基礎的な力を身につけたのでしょう。
修行中に父親が亡くなり、一家を支えるため、銅版の彫師として働きました。
22歳のとき、版画家として独立しました。
上のカードは、独立したときに作った自分の名刺です。おしゃれ。
絵の学校が閉鎖
母の家で仕事を始め、セント・マーティンズ・レイン・アカデミーにも通い、油彩画の勉強をしました。
ところが、通っていた学校が閉鎖してしまったため、28歳のとき、歴史画家サー・ジェイムズ・ソーンヒルの無料画塾に通い始めました。
当時、重要な仕事はほとんど外国人画家に委託されていたなか、ソーンヒルはイギリス人画家として初めてナイトの称号を受け、セント・ポール大寺院の壁画を任されたりと活躍していた画家でした。
注文の取りやすいカンバセーション・ピース(家族の肖像画)を描き始め、成功します。
フリーメイソン
1725〜1728年頃に、イングランド首位グランドロッジに加入して、フリーメイソンに。
結婚
ソーンヒルは、ホガースの画家としての才能は認めていましたが、自分の娘と恋仲になることは許せませんでした。
というのも、貧乏で無名で、自分たちより階級も低くて年も離れていたため、ホガースが自分の大事な娘を、出世の足掛かりのため利用するつもりだと考えたからでした。
そこで31歳のとき、12歳年下のソーンヒルの娘ジェインと駆け落ちし、小さな教会で2人だけの結婚式を挙げました。
ソーンヒルの心配したようなことにはならず、夫婦は幸せに添い遂げました。
2年後には、ソーンヒルとも和解し、夫婦で彼の邸宅へ引越し、ソーンヒルが死去したときには、ホガースは遺産相続人にもなっていました。
『娼婦一代』
『娼婦一代』第一場面
34歳のときに描いた連作物語絵がイギリスで大ヒットしました。
売春婦を描いた教訓的スケッチを友人に見せたところ、ひどく面白がり、対になった絵も描いたらどうかと言われて、連作物語絵を思いついたのが始まりでした。
今の感覚だと、自分で物語や登場人物を考えて絵を描くというのは普通のことのように思えますが、当時「物語画」といえば、宗教画や神話画など、元からある有名な話を絵に描いたものしかありませんでした。
最初は油彩画で描きましたが、これだと1点もので、鑑賞者の層も人数も限られるということで、大勢の人、自分と同じ庶民にも見て欲しいと考え、銅版画連作『娼婦一代』として6枚1セットで出版し、大成功しました。
都会に出てきた田舎娘が早速道を踏み外す話です。
詳しくはこちら↓
翌年、版画商の店を開き、次々と新作を出版し、大繁盛します。
一時、宗教画にも挑戦しましたが、自分には合わないとすぐに見切りをつけ、連作物語絵に戻りました。
学校を再建
38歳のとき、昔通っていて閉鎖してしまったあのセント・マーティンズ・レイン・アカデミーを再建します。
現在の著作権法の元になったホガース法
物語絵が大ヒットしたわけですが、そうすると海賊版が巷に溢れ、不当に利益を上げる人たちが出てきました。
それを抑制するために著作権法を議会に通過させようと奮闘しました。
「ホガース法」と呼ばれた版画著作権法が制定され、これによってイギリスの版画家は、制作後14年間の著作独占権を得ました。
『放蕩一代記』
『放蕩一代記』第一場面
『放蕩一代記』を出版します。
孤児養育院
《コラーム船長の肖像》1740年
42歳のとき、孤児養育院のためにこの絵を描きます。
そしてここの創立院長にもなっています。
『当世風結婚』
『当世風結婚』第4場面
46歳のとき、連作『当世風結婚』を制作します。
没落貴族の息子と成金商人の娘が結婚するも調子に乗りすぎた話です。
詳しくはこちら↓
オークションを開催
当時イギリスの画家は、外国の画家より格下扱いでした。
ホガースは、自分の作品が外国の巨匠と対等だと証明しようとオークションを開催しますが、失敗。
イギリス美術界への不満が大きくなっていきます。
52歳のとき、2度目のオークションを開催しますが、これも失敗。
ビール街とジン横丁
『ビール街』1751年
『ジン横丁』1751年
対になっている作品です。
『ジン横丁』は見たことがある人も多いはず。
論文を出版
《ホガース家の6人の使用人》1750-1755年
56歳のとき、論文「美の分析」を出版します。
歳を取れば取るほど、ホガースの毒舌は強まり、美術界で孤立した存在になっていました。
上の絵は、ホガース家の使用人を描いた絵、彼が死の直前まで手元に置いていたお気に入りの作品でした。
当時は、使用人が肖像画に描かれることはほとんどなかったので、異例の作品でした。
連作『選挙』を出版します。
62歳のとき、古代神話をテーマに「ジギスムンダ」を制作します。
66歳のとき、ロンドンで亡くなりました。
まとめ
・ホガースは、風刺の効いた物語絵が得意