こんにちは!
今回は、マネのモデルを多く務めたヴィクトリーヌ・ムーランについてです。
早速見ていきましょう!
ヴィクトリーヌ・ムーラン(1844-1927年)
エドゥアール・マネ《ヴィクトリーヌ・ムーラン》1862年頃
モデルで画家
ヴィクトリーヌ・ムーランはフランスの有名なモデルで画家です。
パリで、ブロンズ彫刻の色付けを行う職人だった父親と、帽子職人の母親の間に生まれました。
16歳のとき、トマ・クチュールの美術モデルの仕事を行いました。
ムーランはこの頃クチュールの女性用アトリエで絵を学んでいたのでは?ともいわれています。
マネとの出会い
エドゥアール・マネ《街の歌い手》1862年頃
マネは、ギターを持って通りを歩いていたムーランに一目惚れし(もちろん恋愛感情ではありません)、ムーランが18歳のとき、上の絵を皮切りに、マネの数作品のモデルとなりました。
エドゥアール・マネ《マタドール姿のヴィクトリーヌ・ムーラン嬢》1862年
とはいえ、この出会いの部分は正確にはわかっていないようで、クチュールの画塾の元生徒だったマネと、そこのモデルだったムーランは、なにかしらそこで出会いがあったとも推測できますし、ベルギーの画家アルフレッド・ステヴァンスを通して出会ったのでは?ともいわれています。
エドゥアール・マネ《オランピア》1863年
ムーランは「ラ・クルヴェット(フランス語で小エビ)」とあだ名で呼ばれるような小柄な体つきとマネの《オランピア》で鮮やかに描かれている赤毛が特徴的な女性でした。
エドゥアール・マネ《女とオウム》1866年
この絵は「五感の寓意」を表しており、片眼鏡が視覚、すみれのブーケが嗅覚、花に触れる手が触覚、オウムが聴覚、オレンジが味覚にあたります。
音楽の才能
エドゥアール・マネ《ギター奏者》1866年
ムーランはギターとヴァイオリンを弾き、これらのレッスンをし、カフェで歌いました。
モデル=売春婦?
エドゥアール・マネ《草上の昼食》1863年
ムーランはプロのモデルでしたが売春婦といわれていました。
というのも、当時、モデルは裸にもなることから(こちらは芸術作品のためですが)、売春婦もほとんど同じと考えられていたからです。
同時期に、マネと親しかったドガとアルフレッド・ステヴァンスのモデルも勤めました。
ステヴァンスとの関係は特に親密だったとか。
エドゥアール・マネ 《クロケットゲーム》1873年
マネは1870年代初めまでムーランをモデルとして使い続けたが、この頃ムーランが絵のレッスンを受け初め、マネが反発していたアカデミック美術に惹かれるようになったため、2人は疎遠になりました。
エドゥアール・マネ《鉄道》1873年
マネがムーランを描いた最後の作品が、ムーラン29歳のときの上の絵です。
モデルという職業が、画家の前で裸体を晒すなど社会的に不名誉なものとされていたこともあり、ムーランは不遇のまま没したというのが長年の定説でした。
しかし、近年の研究により、後半生は画家として一定の地位を得ていたことが明らかになっています。
サロンに入選するほどの腕前
31歳のとき、ムーランは肖像画家エティエンヌ・ルロワに師事し始めました。
32歳のときには、サロンで彼女の作品が展示され、批評家賞を受賞しています。
皮肉にも、マネがこの年出品した作品は落選していました。
35歳のときにムーランが芸術アカデミーに出品した作品《16世紀ニュルンベルクの女性市民》はマネの作品と同じ部屋に展示されました。
唯一残っている絵
ヴィクトリーヌ・ムーラン《枝の主日》1880年代?
ムーランの作品で唯一残っているのが、2004年に発見された上の油絵です。
41歳と60歳のときにも、作品が展覧会に展示されました。
ムーランはサロンで6回作品を展示しています。
また、1880年代までは、エッチングで最もよく知られるノルベール・グヌットとロートレックのためにモデルの仕事も続けていました。
ロートレックは好んでムーランを「オランピア」と紹介しました。
59歳のとき、ムーランはシャルル・エルマン=レオンと創立者トニ・ロベール=フルーリーの後押しによりフランス芸術家協会の会員となりました。
恋愛対象は女性だった?
62歳までにはムーランはパリを離れてコロンブの郊外に移り、余生をマリー・デュフールという女性と過ごしました。
2人は住居を共同で所有したようで、80代になってなおムーランが画家を名乗っていたことが当時の国勢調査の記録に残っています。
ムーランは83歳で亡くなりました。
ムーランの死の3年後にデュフールが亡くなり、住居の中身は処分されました。
20世紀末に、近所に住む老齢の人々が、ムーランの家に最後まで残っていたヴァイオリンとそのケースなどが焚き火にくべられるのを見たと語っています。
まとめ
・ムーランは、マネの絵のモデルとして有名なだけでなく画家でもあった