こんにちは!
今回は、デ・キリコの「不安を与えるミューズたち」についてです。
早速見ていきましょう!
不安を与えるミューズたち
上の絵は、第一次世界大戦中、デ・キリコが北イタリアのフェッラーラにいたときに描いた作品です。
エステンセ城
当時デ・キリコが住んでいた近くにあったエステンセ城が背景に描かれています。
エステンセ城は現在もあります((「エステンセ城」で検索 googleの画像検索に飛びます)。
工場
左側には工場があります。当時のフェッラーラは繊維工場が発する麻を煮る臭いが充満する街で、その麻薬効果が当時描いていた風景画に影響しているのでは?ともいわれています。
ミューズ
喜劇のミューズ(女神) タレイアでしょうか。横に彼女のアトリビュート、羊飼いの杖らしきものがあります。
ということで消去法で彼女は悲劇のミューズ メルポメネでしょうか。彼女のアトリビュートである悲劇の仮面が描かれています(これが喜劇の仮面ならタレイアですが…)。
この前景にいるマヌカン(マネキン)の解釈にはもうひとつあり、ケンタウロス族とラピス族の戦いの最中に、戦いの結果を心配しながら待っていたヒッポダミアだという説もあります。
アポロン
彼女たちがミューズだとすると、この像は太陽神アポロンということになります。
ミューズたちはアポロンと行動をともにしていました。取り巻きです。
実は何枚もある
出典 : JULIA RITSON『The Disquieting Muses』
上の画像を見てわかるように、1945年から1962年までの間でデ・キリコは本作を少なくとも18枚は複製しています。
エリュアール&ガラ(後のダリの妻)夫婦やブルトンも欲しがっていた絵
詩人のポール・エリュアールは、本作の購入を熱望していました。
当時の彼の妻はガラ、後のダリの妻です。デ・キリコはすでに本作を売却済みだったため、ガラに1,000リラでレプリカを制作しますよと伝えている手紙(1924年3月24日)が残っています。
デ・キリコは彼らのために複製画を制作しています。
ちなみにシュルレアリスム宣言で有名な詩人アンドレ・ブルトンも本作を購入したいと考えていましたが、デ・キリコから同じくレプリカ制作を提案されて、かなり困惑したそう…。
偽りの年号を記載
彼は、《不安を与えるミューズたち》だけでなく、他の初期の形而上絵画のレプリカを多く制作しています。さらにその複製作品には、実際の制作年ではなく、1910年代の年号を記載していました。
なぜそんなことをしたのかはよくわかっていませんが、彼のキャリアを通して、1910年代の形而上絵画がもっとも成功しており、その後そこを超えることができなかったためだと考えられています。
14枚見つけたので下に載せました。オリジナルとは若干違う部分があり、間違い探しのよう…。
ジョルジョ・デ・キリコ《不安を与えるミューズたち》1947年
アンディ・ウォーホル版
ウォーホルもデ・キリコの同じイメージの繰り返しにシンパシーを感じて、いくつか作品を制作しています。