こんにちは!
今回は、ポンペイについてです。
早速見ていきましょう!
目次
ポンペイ
世界遺産
The public administration
Archaeological Areas of Pompei, Herculaneum and Torre Annunziata1997
出典:Google Arts & Culture『UNESCO World Heritage』
ポンペイは、南イタリアのナポリ近郊にあった古代都市です。
今からおよそ2000年前、ヴェスヴィオ山の噴火によって街のすべてが地中に埋没しました。
キャレル・ウィルリンク《ポンペイへの遅い訪問者》1931年
火山灰に飲み込まれた人々の住まいや家財、美術品などは、タイムカプセルに入ったように時を超え、現在続々と再発見されています。
現在この遺跡は、ユネスコの世界遺産に登録されています。
快楽と商業の都市
ポンペイ《ウェヌス・アナデュオメネ》
街の守護者は美と恋愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)でした。
ポンペイ《マルスとヴィーナス》
娼婦の館などが発掘され、ここで男女の交わりを描いた壁画が多く出土したことから、快楽の都市とも呼ばれています。
当時は性的におおらかな時代だったことから、ポンペイのような商業都市には商人向けの娼婦館のような施設は多かったようです。
ポンペイは港が近く、商業都市として栄えていました。
ポンペイ《バックス(ディオニュソス)とヴェスヴィオ山》
さらに、火山噴火まではぶどうの産地で、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業はワイン醸造だったと考えられています。
現在はポンペイ周辺で火山活動の地殻変動によって陸地が上昇し、相対的に水位が下がっていますが、当時は港もあり海洋都市でもありました。
ポンペイは建造物や街区が、古代ローマ当時のままの唯一の街として知られています。
碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていました。
市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市であることも分かっています。
ルイ・エクトル・ルルー《ポンペイの不思議な石》1884年
通りの両側には家と店があり、建造物は石でできていました。
居酒屋のメニューも残っており、こう記されていました。
「お客様へ、私どもは台所に鶏肉、魚、豚、孔雀(くじゃく)などを用意してあります。」
噴火前の大地震
紀元62年2月5日、ポンペイで大きな地震が発生しました。
その被害は甚大で、神殿や公共施設は16年後の噴火時にも、いまだ完全には修復されていなかったほどでした。
富裕者の多い地区では、個人住宅の復興は比較的早く進んだようですが、富裕層の中には市外に住居を移す者もいたようです。
地震の前には2万人程度いたポンペイ市民も、1万人ほどに減っていました。
大噴火
アルフレッド・エルモア《ポンペイ紀元79年》1878年
紀元79年8月24日以降(噴火日については諸説あり)の午後1時頃、ヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けました。
翌25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイは一瞬にして完全に地中に埋まりました。
降灰はその後も続きました。
一応、噴火の発生日は79年8月24日とされていますが、18世紀に発掘が開始されて以来、発見された衣類、農作物などから実際に噴火したのは8月24日より後なのでは?と言われています。
また、2018年の発掘調査では家屋の壁に「11月の最初の日からさかのぼって16番目の日」と書かれているのが発見されました。
これにより、実際に噴火が発生したのは79年10月17日以降である可能性が指摘されています。
唯一の記録
カール・ブリューロフ《ポンペイ最後の日》1830-1833年
軍人でもあった博物学者の大プリニウスは、ポンペイ市民を救助するために船で急行しましたが、煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだことが甥の小プリニウスによる当時の記述から知られています。
当時、唯一の信頼できる記録は、小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙でした。
これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、松の木(イタリアカサマツ)のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだのを見た(つまり火砕流)と記録しています。
火砕流は火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が雪崩のように流れる現象のことです。
プリニウスは爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れたと述べています。
さらに灰がどんどん積もり、彼は街から逃げなければなりませんでしたが、海の水がみるみる引いていった後に「津波」が起きたそう。
プリニウスの記述には、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかったと続き、大プリニウスはこの現象を調査するために船で再び陸に向かいましたが、窒息して死んでしまいました。
2千人の犠牲者
噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに役人を派遣しましたが、街は壊滅したあとでした。
市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げていましたが、これら一連の災害により、何らかの理由で街に留まった者の中から逃げ遅れた者約2千人が犠牲になりました。
18世紀になってやっと大々的な発掘が開始
噴火によって壊滅した後は二度と集落が作られることはありませんでしたが、その後1000年以上「町」という地名で呼ばれた他、散発的に古代の品が発見されたので、下に都市が埋まっていることは知られていました。
しかし、ポンペイは段々と忘れられていき、完璧に消滅したと考えられていました。
1748年、ポンペイが再発見され、建造物の完全な形や当時の壁画を明らかにするために断続的に発掘が行われるようになりました。
すばらしい美術品
ポンペイ《アレクサンドロス大王のモザイク》
ポンペイとその周辺の別荘からは多数の壁画が発掘され、古代ローマの絵画を知る上で重要な作品群となっています。
ポンペイの壁画の様式には年代により変遷が見られ、主題も静物、風景、風俗、神話と多岐にわたっています。
男女の交わりを描いた絵も有名で、これらはフォルム(市民広場)や浴場や多くの家や別荘で、よい状態で保存され続けていました。
一瞬のうちに飲み込まれる
ジョン・マーティン《ポンペイとエルコラーノの壊滅》1821年、2011年復元版
ポンペイの壁画が豊かな色彩を失わなかった秘密は、あの日の出来事にありました。
ヴェスヴィオ火山の噴火により押し寄せた火砕流や有毒ガスが、ポンペイの人々の命を次々と奪っていきました。
火砕流が、一瞬にして5メートルの深さに町全体を飲み込みました。
すべてが灰に覆われ、そのまま2000年近く空気からも日光からも遮断されてきたこの遺跡からは、噴火寸前まで続いていたさまざまな人々の生活を驚くほどそのまま留められています。
火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収しました。
この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められました。
ポンペイ《秘儀荘のフレスコ 一部》
当時の宗教儀式の様子を描いた壁画の鮮烈な色合いは「ポンペイ・レッド」と呼ばれています。
どのように死んでいったのか
多くの犠牲者がどのようにして死んでいったかについては、意外にもまだ多くの論争があります。
噴火時に発生した火砕流の速度は時速100km以上で、市民は到底逃げることはできず、一瞬のうちに全員が生き埋めになりました。
多くの死を招いた主な要因は灰やガスではなく、火砕サージ(火山灰と空気の混ざった高熱の爆風)などによる高温の熱によるものだったのでは?とも言われています。
後に犠牲者が発掘された際には遺体部分だけが腐敗消失していたため、空洞に石膏を流し込んで、彼らの最後の姿を上の写真のように再現しています。
顔までは再現できませんでしたが、母親が子供を覆い隠して襲い来る火砕流から子供だけでも守ろうとした様子、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子が生々しく再現されました。
タイムカプセル
ポンペイ《テレンティウス・ネオとその妻の肖像(パン屋の夫婦)》紀元前55-79年
ポンペイは、1世紀の古代ローマ人たちの生活の様子をそのまま伝えてくれます。
焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、コイン、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きが当時のラテン語をそのまま伝えています。
ポンペイ《書字板と尖筆を持つ女性(通称「サッフォー」)》
保存状態のよいフレスコ画は、当時の文化をそのまま伝えています。
当時のポンペイはとても活気のある都市でした。
ローレンス・アルマ=タデマ《お気に入りの習慣》1909年
整備された上下水道の水道の弁は、水の量を調節する仕組みが現在とほとんど変わらず、きれいな水を街中に送っていました。
上の絵は、ポンペイのスタビア浴場をモデルに描いた作品です。
トイレが社交の場となっていたようで2人掛けのトイレが存在し、トイレは奴隷とその主が共同で使用しており、トイレの壁に「見事だ」と奴隷による落書きが残された遺構もあります。
発掘された排泄物や骨の調査から、身分によって食事の内容に違いはなく、皆健康的な食生活を送っていたようです。
テオドール・シャセリオー《テピダリウム》1853
上の絵は、ポンペイのウェヌス・ゲネトリクス(母なるウェヌス)の浴場からインスピレーションを得て制作した作品です。
テピダリウムというのは、床暖房のようなもののことです。
爆発時のポンペイの人口は1万人弱で、ローマ人(ローマ市の住民)の別荘も多くあり、また彼ら向けのサービスも多くありました。
ポンペイ《パン屋の店先》
ポンペイ《炭化したパン》
大きな食物市場、製粉所、冷たいものや熱いものなどさまざまな飲料を提供したバー、小さなレストラン、円形劇場などがあり、噴火直前までこれらが営業していた痕跡があります。
2002年には、サルノ川河口にボートを浮かべ、ヴェネツィアのような船上生活をしていた人がいたことが判明するなど、現在も新事実が続々と報告されています。
動き出す時間…
ポンペイの建築物が発掘により白日の下にさらされたことにより、止まった時計が再び動き出すかのごとく、雨風による腐朽が進行するようになりました。
2010年には「剣闘士の家」と呼ばれた建物が倒壊、翌年には「ポルタノラの壁」が倒壊しています。