こんにちは!
今回は、様々な画家が描いたムーラン ・ド・ラ・ギャレットの絵を紹介します。
早速見ていきましょう!
ムーラン ・ド・ラ・ギャレット
人気のダンスホール
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は、モンマルトルの丘にあった労働者階級が集った「ギャンゲット」のひとつです。
ギャンゲットとは、市外にある大衆的な酒場のことで、ダンスや飲食も楽しめる娯楽場でした。
川に面した場所にあることが多いのは、 川遊びを楽しみ、そして川魚料理を食べながら屋外で過ごしていたためで、市外にあったのは、当時のパリ市内だと飲酒の際に税金がかかったからででした。
週末になると無税で酒を飲むために、発展著しい鉄道を使って庶民がギャンゲットに集まって楽しみました。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットがモンマルトルにあったのも、第二帝政時代のパリ大改造によって城壁が取り壊されるまでパリの市外地区だったからです。
パリ中心部から離れているので部屋の賃料が安く、労働者階級が居住する地域でした。
パリの都市開発により、農業地区だったモンマルトルの丘は歓楽街化しました。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は、そのはしりで、製粉業を営み、ギャレットを売っていた商人の親子が、古い風車の近くに開いたダンスホールでした。
「ムーラン」は風車、「ギャレット」は焼き菓子という意味です。
このカフェのダンスホールは、毎週日曜日のみ午後3時から深夜まで開かれ、職人や芸術家、学生が集い、週末にダンスホールやカフェに行くことが、当時の若者の楽しみのひとつでもありました。
ダンスホールは大きな倉庫の中にありましたが、天気の良い日は、庭にテーブルやイスを出して、野外舞踏会が開催され、その様子を描いた作品です。
現在はレストランとして営業しています。
ルノワール
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ムーラン ・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年
ルノワールといえば!な有名な作品ですよね。
庶民の休日の歓びを描いた絵です。
詳しい解説はこちら↓
ゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホ《ムーラン ・ド・ラ・ギャレット》1886年
ゴッホは故郷オランダを思い起こさせるムーラン・ド・ラ・ギャレットのシンボルだった風車を様々な角度から繰り返し描きました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《モンマルトルの風車》1886年
フィンセント・ファン・ゴッホ《ムーラン ・ド・ラ・ギャレット》1886-1887年
フィンセント・ファン・ゴッホ《ムーラン ・ド・ラ・ギャレット》1887年
《モンマルトル:ムーラン・ド・ラ・ギャレットの裏側》1887年
ロートレック
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン ・ド・ラ・ギャレット》1889年
ロートレックもムーラン ・ド・ラ・ギャレットの常連でした。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン ・ド・ラ・ギャレットにて》1891年頃
中央の赤い服の女性は、ムーラン ・ド・ラ・ギャレットで描いたのではなくて、習作を参考してアトリエで制作したため、少し不自然な印象が残る絵になっています。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン ・ド・ラ・ギャレットの一角》1892年
混雑しているのに孤独感を感じる作品です。
ラモン・カザス
ラモン・カザス《ムーラン ・ド・ラ・ギャレットでのダンス》1890-1891年
ラモン・カザス《ムーラン ・ド・ラ・ギャレットの室内》1890-1891年頃
ラモン・カザス《モンマルトル》1890-1891年
ムーラン ・ド・ラ・ギャレットを背景に、パリのモンマルトルの街並みが描かれています。
サンティアゴ・ルシニョール
サンティアゴ・ルシニョール《ムーラン ・ド・ラ・ギャレット 公園の入り口》1890-1891年
サンティアゴ・ルシニョール《ムーラン ・ド・ラ・ギャレット 公園》1891年
ピカソ
パブロ・ピカソ《ムーラン ・ド・ラ・ギャレット》1900年
ルノワールの作品から24年後、ビカソも同じダンス場を取り上げました。
しかし見てのとおり、とても同じ場所とは思えません。
ルノワールの健全さはどこへやら、ビカンはこれでもかと怪しげな雰囲気で描いています。
昼と夜の違いというより、このカフェ自体が次第に売春婦たちのたまり場へと変貌していったという事実があります。
このムンクのような妖しさ、これほどの退廃ムードを、スペインからパリへ出てきてまだたった2ヶ月だった19歳のピカソが、やすやすと描きあげました。天才…。
ユトリロ
モーリス・ユトリロ《ムーラン ・ド・ラ・ギャレット》1906-1920年
モーリス・ユトリロ《ムーラン ・ド・ラ・ギャレット》1910年頃