こんにちは!
今回は、モネがいつも(金銭的に)頼りっぱなしの画商デュラン=リュエルを助けます。
早速見ていきましょう!
モネの第7回印象派展とエトルタ
前回のおさらい
モネは、貧乏生活からやっと脱出しました!
どう考えても不倫
クロード・モネ《庭のアリス・オシュデ》1881年
モネ41歳のとき、デュラン=リュエルに引っ越し資金を出してもらい、モネとアリスと8人の子供たちはセーヌ川に面したポワシーに移りました。
ちょうど賃借契約が満期になったうえ、アリスとの関係性(詳しくはこちら。簡単に言うと不倫)から、ヴェトゥイユの住民から冷たい目で見られ、住みづらくなってしまったことが大きかったよう…。
アリスとその子どもたちは、パリに戻るようにとのアリスの夫エルネストの求めに反してモネについていき、モネとアリスとの関係は、エルネストに対してますます説明が難しいものとなりました。
引っ越した場所がイヤ
クロード・モネ《海辺の船》1881年
モネはポワシーの土地を毛嫌いしており、「この土地は僕にはまったく合わない」とたびたび述べていました。
クロード・モネ《プールヴィルの断崖の上の散歩》1882年
しかし、ポワシーが気に入らなかったモネは、新しい移転先を探し、売れる画題を求めて旅行ガイドや写真を参考に、故郷近くのノルマンディーへ制作旅行に出かけ、ディエップの断崖や、ヴァランジュヴィル=シュル=メール近くのプールヴィルの断崖など海を描くようになりました。
恩人を助けるため第7回印象派展に参加
クロード・モネ《ひまわりの花束》1881年
42歳のとき、画商デュラン=リュエルを助けるために、第7回印象派展に海景画、風景画、静物画など35点を出品しました。
デュラン=リュエルは、彼の友人の銀行家ジュール・フェデールの破産によるユニオン・ジェネラル銀行の破綻と市場の株価暴落で経済危機に陥っていました。
この第7回展は、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、カイユボット、ベルト・モリゾが参加するなど、久しぶりに印象派らしい展覧会でした。
しかしモネは、会期中、一度も会場に足を運ぶことはありませんでした。
新聞からは依然として批判もありましたが、海の風景画は好評を呼びました。
多くの作品が売れ、デュラン=リュエルは持ち直しました。
1880年代初頭まで好景気を迎えていたフランスの美術市場全体が活性化されたことで、その余波は印象派絵画にも及んでいました。
しかし、第7回展のあった年、1882年に再びフランスの景気が悪化したため、有能な経営者デュラン=リュエルは、フランス市場よりも巨大なアメリカ市場を新しいターゲットとして狙いを定めていきます。
芸術家に人気のエトルタ
クロード・モネ《マンヌポルト(エトルタ)》1883年
43歳のとき、観光地として有名な海辺の町エルトタに何度も足を運び、海や空、奇岩や断崖を描きました。
エトルタといえばルパン『奇巌城』のモデルとしても有名ですね(モネが絵を描いていた頃から約26年後に小説が出版された)。
モネだけでなく、ブーダンやクールベなどもここで絵を描いています。
クロード・モネ《エトルタの荒れた海》1883年
46歳くらいまで、定期的にエトルタの海岸を訪れ、絵を描きました。
モネの長い不在中、家族はアリスが世話をしており、彼女の負担を軽減するため、モネが戸外では下絵制作だけにし、その後の作業はアトリエでするようになりました。
そして、エトルタを描いた海景画などが人気になりました。
反響なしの個展
クロード・モネ《菊》1882年
デュラン=リュエルがパリのマドレーヌ大通りに新しく開いた画廊で、モネの個展を開催し、56点を展示しました。
しかし反響はなく、モネはデュラン=リュエルの準備不足を非難しました。
デュラン=リュエルは、グループ展を開催するのは大変だからと、画家ごとの個展を企画したようで、1883年初頭から、ブーダン、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレーと1月ごとに続けて個展を開きましたが、どれも大きな注目を集めることはありませんでした。
次回はいよいよ、終の住処ジヴェルニーへお引っ越し&仲良しルノワールと旅行編です!
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