こんにちは!
今回は、モネと仲間の出会いについて解説します。
早速見ていきましょう!
勉強嫌いのモネの画家修業 パート2
前回のおさらい
勉強嫌いのモネは、自由に絵を描ける場所を求めていました。
仲間との出会い
オーギュスト・トゥールムーシュ《不本意な花嫁》1866年
22歳のとき、パリに戻り、親戚の画家トゥールムーシュに勧められて、スイス人の画家グレールのアトリエに入りました。
クロード・モネ《日没時の海の眺め》1862年
そしてここでモネは、シスレー、ルノワール、バジールとの運命的な出会いを果たし、仲良くなり、戸外で一緒に絵を描くようになりました。
シャルル・グレール《失われた幻影》1865-1867年
グレール自身は、理想化された様式を重んじるアカデミズムの画家でした。
クロード・モネ《ハンティングトロフィー》1862年
しかし、当時の画家のアトリエの中でははるかに自由な教育方針で、グレールが週に1度やってきて生徒の絵を直すほかは、生徒はモデルを使って自由に描くことが許されていました。
クロード・モネ《ボトル、水差し、パン、ワインのある静物》1862-1863年
彼は生徒から授業料を徴収せず、アトリエの家賃とモデル代の分担金を受け取るだけでした。
費用が安いこともあり、アカデミックな美術教育に満足できない画家の卵たちが彼のアトリエに集まっていました。
もっとも、グレールの指導は、モデルをありのまま描いてしまっては醜いから、古代美術を念頭に様式化して描こう!というものでした。
クロード・モネ《広い風景》1862年
なので自然をありのまま描くことというブーダンやヨンキントの教えに共感していたモネは、グレールに不信感を持っていました。
教室には、家族を失望させない程度に定期的に顔を出す程度でした。
クロード・モネ《ノルマンディーの農場》1863年頃
モネは、最初に入った画塾アカデミー・シュイスの仲間(ピサロなど)とグレールのアトリエの仲間を結びつけます。
これがのちの印象派グループの中心メンバーとなります。
森の中の交流
クロード・モネ《シャイイへの道(フォンテーヌブローの森)》1865年
23歳のとき、バジール、ルノワール、シスレーを誘ってバルビゾン近郊のシャイイへ写生旅行に行きました。
モネは彼らに森の中での制作を教え、また森で出会ったバルビゾン派の巨匠たちからアドバイスをもらいました。
モネは特にミレーを尊敬していましたが、気難しいミレーに実際に話しかけることはできなかったそう…。
マネの伝説の絵
エドゥアール・マネ《草上の昼食》1863年
サロンの落選作を集めた「落選展」が開催され、マネの《水浴(草上の昼食)》がスキャンダルを巻き起こしており、モネもこの絵を見たと考えられています。
秋ごろ、グレールの病気のためアトリエの閉鎖が検討されることになり、モネ、バジール、ルノワール、シスレーはアトリエを離れました。
お金持ちのバジールをあてにするモネ
クロード・モネ《並木道(サン=シメオン農場の道)》1864年
24歳のとき、バジールとノルマンディー地方へ旅行しました。
上の絵は、ブーダン、ヨンキント、バジールらと共にノルマンディー地方のオンフルールで制作した作品です。
この絵は、下のバジールのアトリエの絵の中にも描き込まれています。
一足先にパリに帰ったバジールに対して、オンフルールに残ったモネは「ここは素晴らしいよ。毎日毎日、何かしら昨日よりもっと美しいものが見つかる」と、興奮した手紙を送っています。
フレデリック・バジール《フュルスタンべール通りのアトリエ》1865-1866年
その後パリに戻り、バジールのアトリエで一緒に制作するようになりました。
上の絵の中には、モネの絵がいくつか掛かっています。
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そして次回はついに、モネが美術界にデビュー&異端児マネ先輩との出会い編です。
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モネの生涯をノンストップ解説↓