こんにちは!
今回は、ついにモネがカミーユと結婚します!からの戦火を逃れてロンドンへ編です。
早速見ていきましょう!
結婚と戦争、ロンドンでの出会い
前回のおさらい
モネは、ルノワールと絵を描きに行き、印象派の画風がここで生まれました。
サロンに見切りをつける
クロード・モネ《ラ・グルヌイエール》1869年
30歳のとき、サロンに《昼食》《ラ・グルヌイエール》を提出しましたが落選しました。
ミレーやドービニーといった審査員の支持にもかかわらず、再度落選してしまいました。
シャルル=フランソワ・ドービニー《オワーズ川の川辺》1868年
ドービニーはモネの落選に抗議して審査員を辞めたほど、28歳年下のモネの才能を高く買っていました。
モネは、以後しばらくサロンへの出品を取りやめます。
結婚と新婚旅行
クロード・モネ《トルヴィルの浜辺で座っているカミーユ》1870年
6月、モネはカミーユと結婚しました。
その夏、モネは新婚旅行として、ノルマンディー地方の海辺のリゾート地トルーヴィルに、カミーユと息子ジャンと一緒に行きました。
クロード・モネ《トルヴィルの浜辺》1870年
ブーダンも妻を連れてトルーヴィルに来て、モネと一緒に制作しました。
このとき制作した上の絵には、カミーユと、ブーダンの妻が描かれています。
強風の中制作したため、絵具の表面に、吹き上げられた海岸の砂や貝殻の破片が付着していることが分かっています。
戦火を逃れてロンドンへ
クロード・モネ《国会議事堂下のテムズ川》1871年頃
7月、普仏戦争が勃発し、兵役を逃れるために、妻カミーユと幼い長男ジャンをフランスに残したままロンドンに渡りました。
クロード・モネ《ロンドンのプールのボート》1871年
ロンドンでは、あまり絵を描く気になれなかったのか数点しか制作していません。
同じくロンドンに避難していたピサロとともに美術館を訪れ、イギリスの超有名風景画家コンスタブルとターナーを研究しました。
ターナーの描く霧の風景や、コンスタブルの描く雲の風景は、自然の移ろいゆく光を新しい感性で観察しており、印象主義の生成・発展に影響を与えたことが指摘されています。
画家になることを後押ししてくれた伯母ルカードル夫人が亡くなりました。
画商デュラン=リュエルとの出会い
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ポール・デュラン = リュエルの肖像》1910年
バルビゾン派の画家ドービニー(ゴッホが尊敬していた画家)も同じようにロンドンに逃れていました。
モネにロンドンに一緒に逃れることを強く勧めたドービニーは、経済的に困窮しながら外国に滞在中のモネを、何かと気にかけ、彼の面倒をよくみました。
そんなドービニーが、モネとピサロを同じく同地に避難していた画商ポール・デュラン=リュエルに紹介しました。
クロード・モネ《ロンドン、グリーンパーク》1870-1871年
こうした出会いもあって、バルビゾン派を扱う画廊(もともとは文具・画材)を引き継いでいたデュラン=リュエルは、次の時代を担う絵画として印象派に誰よりも早く着目し、フランスのみならず世界に売り込んでいきます。
上の絵は、後にデュラン=リュエルがモネから購入した最初の絵画のひとつです。
カミーユと息子とロンドンで合流します。
親友バジールの死
ジャン・フレデリック・バジール《自画像》1865-1866年
11月、親友バジールが29歳の誕生日を目前に戦死しました。
翌年1月、父親が亡くなりました。
次回は、戦争が終わり、好景気の時代に突入編です。
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