こんにちは!
今回は、モネの睡蓮の「大装飾画」を紹介します。
早速見ていきましょう!
モネの人生のフィナーレ
前回のおさらい
モネは、睡蓮の「大装飾画」を国へ寄贈するぞ!と意気込みましたが、あまりにも目が見えなくて嫌になってきました。
生存中最大の回顧展
クロード・モネ《積みわら、夏の終わり》1891年
モネ84歳のとき、ジョルジュ・プティ画廊で、生存中最大の回顧展が開催されました。
モネのための美術館
クロード・モネ《アイリスのある睡蓮の池》1920‐1926年
85歳のとき、「大装飾画」の制作が難航しました。
メガネをするようになり、色彩感覚が改善されました。
モネの「大装飾画」のために、政府はテュイルリー公園内のオランジェリー(オレンジの温室)を美術館として生まれ変わらせました。
肺の病
クロード・モネ《バラに囲まれた家》1925年
86歳の夏の終わり、モネは肺の病で病床につきます。
モネには病名は肺硬化症と伝えていましたが、レントゲン写真には肺癌が写っており、クレマンソーは本当の病名をモネには伝えなかったといわれています。
そしてこの年の冬、印象派最大の巨匠となっていたモネは、肺の病のため愛するジヴェルニーの自宅でその生涯を閉じました。
息子のミシェルや、ブランシュ、クレマンソーが彼を看取りました。
除幕式
クロード・モネ《睡蓮:柳の朝》1914‐1926年
クロード・モネ《睡蓮:木の反射》1914‐1926年
クロード・モネ《睡蓮:雲》1914‐1926年
クロード・モネ《睡蓮:柳のある晴れた朝》1914‐1926年
クロード・モネ《睡蓮:2つの柳》1914‐1926年
クロード・モネ《睡蓮:夕日》1914‐1926年
クロード・モネ《睡蓮:緑の反射》1914‐1926年
クロード・モネ《睡蓮:朝》1914‐1926年
モネの死から約5ヶ月後の1927年5月17日、テュイルリー公園内のオランジェリー美術館で「大装飾画」8点の除幕式が行われました。
『睡蓮』の部屋は、モネの考えに従って、楕円形の2つの部屋からなり、それぞれ4点の大画面作品で構成されています。
「睡蓮の絵だけで部屋を飾りたい」というモネの夢は実現しました。
おもちがオランジュリー美術館に行ったときの話はこちら。
忘れられ、再発見されたモネ
クロード・モネ《睡蓮》1919‐1920年
モネの晩年には、フォーヴィスム、キュビスムなど、次々と新しい芸術表現が生まれており、当時『睡蓮』に注目する人はあまりいませんでした。
クレマンソーは、1927年6月、「昨日、オランジュリー美術館を訪れたが、誰一人としていなかった」と書いています。
しかし、1950年代になると、ジャクソン・ポロックなど抽象表現主義の画家・批評家がモネを引き合いに出すようになり、改めて注目を浴びるようになりました。
画家アンドレ・マッソンは、睡蓮の「大装飾画」を「印象主義のシスティーナ礼拝堂」と呼び、すべての現代人に見ることを勧めました。
モネの生涯をノンストップ解説↓