こんにちは!
今回は、モネの絵がルーヴル美術館に収蔵されます。
早速見ていきましょう!
モネの目と再始動
前回のおさらい
モネは視力の低下で色もわからなくなり、妻、友人に先立たれ、睡蓮の池も水没してしまいます…。
視力の低下によって抽象的な作風に
クロード・モネ《大運河、ヴェネツィア》1908年
モネ72歳のとき、パリのベルネーム=ジューヌ画廊で開催された個展でヴェネツィア風景を展示しました。
この頃、白内障との診断を受けました。
クロード・モネ《日本橋》1918‐1924年
白内障による視力の衰えから、絵はいっそう抽象化していきました。
印象派の絵がもはや古典になっていた当時、モネは意図せずとも新たに現代性の強い作品を最晩年に生み出すことになりました。
息子の死と再始動
クロード・モネ《睡蓮》1914‐1917年
73歳のとき、次男ミシェルと、亡き義娘シュザンヌの子供たちと、スイスのサン・モリッツへ旅行に出かけました。
74歳のとき、長男ジャンが世を去りました。
睡蓮の「大装飾画」を描くための新しい大型のアトリエを建て、制作を再開しました。
ルーヴル美術館に現存画家として初の作品収蔵
クロード・モネ《ポール=ヴィレのセーヌ川》1890年頃
この年、モネ作品14点を含む収集家イサック・ド・カモンド伯爵の遺品コレクションがルーヴル美術館に収蔵されることになりました。
死後10年たたないとルーヴルに展示されないという原則があったため、これは異例のことでした。
モネは、ルーヴルに招かれ、特別室に展示される自作を目にしました。
75歳のとき、第一次世界大戦中の1915年初め、友人への手紙で、大装飾画を目指していることを初めて明かしました。
政府からの依頼
クロード・モネ《睡蓮の池、夕方》1916‐1922年
77歳のとき、ドガが世を去りました。
ノルマンディー地方を旅行しました。
通産大臣エティエンヌ・クレメンテルがモネのもとを訪れ、ドイツ軍の爆撃を受けて破壊されたランスのノートルダム大聖堂を描き、その蛮行を明らかにしてほしいと依頼しました。
モネはこれを引き受けましたが、実際には現地では爆撃が続き、制作することは出来ませんでした。
しかし、政府との関係ができたことで、物資欠乏の戦時下で、ガソリンや石炭を回してもらう便宜を受けることができました。
その間、アトリエで、高さ2メートル、幅4.3メートルの巨大なキャンバスを横に4枚つなげて睡蓮の「大装飾画」の制作を続けました。
次回は、この睡蓮の「大装飾画」のゆくえについてです。
続きはこちら↓
モネの生涯をノンストップ解説↓