こんにちは!
今回は、モネが癇癪を起こしながらも傑作を生み出していく編です。
早速見ていきましょう!
視力の低下との戦い
前回のおさらい
庭師モネ、睡蓮の池をつくりこみ、車デビューしました。
視力の低下
クロード・モネ《睡蓮》1906‐1907年
『睡蓮』第2連作は、1907年(モネ67歳)に発表が予定されていました。
しかしモネは「人前に出せる作品があまりに少ない」として、デュラン=リュエルに延期を伝えました。
モネは、制作中に憂鬱に悩まされることが多々あり、キャンバスに怒りをぶつけ、切り裂くこともありました。
このときも、展覧会の1か月前に30枚のキャンバスを破壊したことをデュラン=リュエルに明かしています。
クロード・モネ《睡蓮》1908年頃
68歳のとき、ジェフロワに対して次のような手紙を送っています。
「この仕事に没頭しきっています。水面とそこに映る影に取り憑かれてしまいました。これは私のような老いぼれの能力を超えた仕事です。でも私は私が感じていることを表現したいのです。何枚も描きつぶし、……また描き始めています。」
クロード・モネ《睡蓮》1907年
モネは庭の池の睡蓮を、それまでの植物カタログや図鑑から発展したボタニカル・アート以外では西洋美術ではあり得ない構図で描いていました。
もともとは伝統的な静物画のように壺に生けた花を描いていたモネでしたが、ジヴェルニーの池を描いていくうちに周囲の庭から離れて、水面の睡蓮をクローズアップして描くという画期的な構図で描くようになりました。
日本では、花鳥風月を主題にした作品も多く、お駅染みの構図ですが、西洋美術では独創的で画期的でした。
この頃からモネの視力が落ち始めました。
最後の夫婦旅行
クロード・モネ《黄昏、ヴェネツィア》1908年
10〜12月、アリスと水の都ヴェネツィアへ行きました。
これが夫婦最後の大旅行となりました。
絵具の色も判別出来なくなっていた
睡蓮《睡蓮》1907年
69歳のとき、デュラン=リュエル画廊で開催された「睡蓮:水の風景連作」展で、『睡蓮』の連作48点が展示されました。
このとき、『睡蓮』で一室を装飾するという計画を考えつきましたが、老化にともない視力が低下し、思うように制作ができませんでした。
絵具の色も判別できないという絶望の中、多数の絵を引き裂いたため、69〜74歳までの絵はほとんど残っていません。
家に友人を招いて気分転換
モネは、気分転換のため、ジヴェルニーの自宅に、彫刻家のロダン、サージェント、詩人のポール・ヴァレリー、画商のデュラン=リュエル、ベルネーム、劇作家サシャ・ギトリ夫妻、日本の黒木三次夫妻、政治家クレマンソーといった友人を招き、特に園芸と料理の話題を楽しみました。
モネの睡蓮の池 水没事件
クロード・モネ《睡蓮》1908年
70歳のとき、セーヌ川の大洪水で、ジヴェルニーの「水の庭園」が水没しました。
池を再び拡張工事しました。
妻アリスとの別れ
クロード・モネ《庭のアリス・オシュデ》1881年
71歳のとき、妻アリスが世を去りました。
アリス死後は、その娘ブランシュ(モネの息子ジャンの妻)がモネを精神的に支えました。
ボストン美術館でモネ回顧展が開催されました。
次回は、現存画家として初めてルーヴル美術館に作品が収蔵されることに?!
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